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ゲバラと共に戦った前村=ブラジル親族と再会したボリビア子孫=第7回=70年ぶりに復活する絆=国境を越え支えあう血族

ニッケイ新聞 2012年2月21日付け

 冷戦構造が崩壊に向かう流れの中で、ブラジルでも軍政時代の元ゲリラや国外追放されたインテリらが中心になって労働者党(PT)が80年に創立され、85年に民政移管となった。エンリッキ・カルドーゾ蔵相(後に大統領)が94年に始めたレアル政策がハイパーインフレの押さえ込みに成功し、その経済路線を継承する形で02年に就任したルーラ大統領がいまの繁栄をもたらした。
 ルーラ政権以降の閣僚にはキューバで都市ゲリラ戦を学んだジルセウら元闘士、組合活動家がずらりと並んだ。ブラジル左派陣営にとってのキューバは今も思い入れの深い聖地だ。にも関わらず、軍政時代のしこりはまだあちこちにある。
 例えばゲリラ武装闘争史上に残る73年のパラー州南部コンセイソン・デ・アラグアイアの闘いがマスコミで公に扱われたのは、軍による虐殺から6年も経った79年だった。たかだか50〜60人のゲリラ組織のために、軍部は延べ1万人といわれる掃討部隊を投入した。そのゲリラに加わった最後の一人が〃ジャポネジーニャ〃カナヤマ・ユミコで、「全身に約百発の機関銃の弾丸をうけて倒れた」(『サンパウロの暑い夏』、野呂義道、講談社、85年、176頁、以下『暑い夏』)とある。今でも軍部の反対で遺骨収集は終わっていない。もう一人のフレディがここに眠っている。
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 ボリビアでは初の先住民出身大統領として、エボ・モラエスは06年に就任した。エクトルは人権関係に強い弁護士としてボリビア国会で15年間ほど働いてきた関係で、先住民勢力を代表する左派政治家モラエス大統領とは、下議時代からの知り合いだった。
 その筋の配慮もあって、エクトルは09年頃、駐東京ボリビア国総領事館へ領事として赴任した。デカセギの就労問題解決などを期待されていたが、1年余りでその職を辞した。その後、大阪の民間企業で9カ月働きボリビアへ帰った。
 エクトルの父は00年からキューバ大使館で外交官として働いていた関係で、母マリーは今ハバナで年金生活を送っている。フレディへの歴史的評価が変わる中で、待遇も変化していった。
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 05年末に、サンパウロ市の前村家の集まりで重朋の兄の娘シルビア(36、二世)は、「ボリビアに親戚がいる」と初めて聞き、フレディのことに関心を持った。スペイン語を勉強していたこともあり、ネットで検索するとマエムラ姓のメールアドレスが見つかった。問い合わせのメールを出して先方に先祖の名前を知らせると、同一の家族であることが確認できた。
 06年4月にシルビアはボリビア、キューバを巡る旅を決意し、実行した。エクトルは本の出版前で、3度目の結婚がヒドイ結果に終わり、気落ちしている時期だった。
 まったくその辺の事情を知らなかったシルビアだが、エクトルは、初対面の彼女がいかにも楽しそうにしている姿を見て「あなたの宗教は何?」と尋ねた。シルビアは不思議に思ったが、信仰している仏教の教えを簡略に説明し、エクトルから大変感謝されたことを覚えているという。
 シルビアはその足でハバナまで行き、ゲバラ廟に納められたフレディの遺骨に手を合わせた。その時の気持ちを尋ねると、こう答えた。「子供の頃、父に『先祖に侍はいるの?』と何度も尋ねたが、『いないよ』とのつれない返事だった。フレディの話を聞いていて、彼の心には侍の精神があると確信し、これは前村家の誇りだと強く思った。信じた理想のために死ぬことができるほど自分に忠実な人だったと思った」。
 この出会いのあと、気持ちを持ち直したエクトルは本を出版し、フレディに対する世間の評価を大きく変えるきっかけを作った。その後、仏教に帰依したエクトルは「ブラジル側家族との出会いから僕の人生は大きく変った」という。シルビアが訪ねてきた時期は、人生に悩み、いつ自殺するかまで考えていた苦悩の時期だったと、最近ブラジル側家族に告白した。(つづく、敬称略、深沢正雪記者)

写真=フレディの遺骨(右上)が納められているキューバのゲバラ霊廟を訪れた前村シルビア(Foto=Silvia Maemura)