ニッケイ新聞 2012年3月15日付け
奥ソロカバナ線アルバレス・マシャードの日本人墓地の白い御堂の隣には、星名謙一郎(1866〜1925)の墓石が立っている。ブラジル初の邦字紙、週刊『南米』を創刊したのに加え、奥ソロの植民地開拓に尽力した先駆者だ。過去を語らないことで有名な人物だったが、後にいろいろな文献からハワイ、北米を渡り歩いた末、ほぼ百年前にブラジルに辿りついたことが分かっている。その晩年には「星名は孤児を養っていた」と多くの文献に記述されていながらも詳細は分かっていなかったが、本紙の取材で〃孤児〃の一人が現在もア・マシャードに暮らしていることが分かった。その名は住沢泰美さん(95)、サントアナスタシオ生まれの二世だ。当時8歳で、1924年から星名が凶弾に倒れる翌年までの1年間養われていた。その証言と文献から知られざる星名の横顔を振り返ってみた。
「あの頃は植民地全体が貧しかった」——住沢さんはそう開拓初期を振り返る。奥ソロカバナ線で星名による「梅弁植民地」の販売が始まったのは1917年。15年に平野運平がノロエステ線に平野植民地を拓いたのに次いで2番目だった。
梅弁は土地名のVai-Vemを取って星名が命名したもので、鉄道ソロカバナ線の終点だったサントアナスタシオ駅の西北2〜8キロの地に950アルケールの土地を斡旋した。
笠戸丸移民から10年、自由のないコロノ生活から土地を持った独立農へと転進しようとしていた時期だった。
北海道開拓で財をなし、後にアルジャーで野菜栽培を確立した小笠原尚衛(なおえ)一族と出会い、翌18年には資金協力を得て梅弁のほど近くにブレジョン植民地3千ア、後にさらに2千アを売り出した。
ア・マシャード50年史『拓魂』(1968年、アルバレス・マシャード文化体育農事協会刊)には、「植民者として入植したのは18年毛利哲夫、伊三の兄弟に始まる」(39ページ)とあるが、この毛利哲夫は、後に星名が同棲するお玉(毛利豊子)の弟であり、星名の死後、住沢さんを引き取る人物だ。
原始林開拓は土地を買ってからが勝負だ。まずは斧で切り拓くところから始まり、薬も医療もままならなかった時代であり、栄養失調で命を落とす幼子も多かった。
戦後移民のア・マシャード日本人会の松本一成元会長は、「開拓当初は墓地もなく、現在の日本人墓地が出来るまでは10キロ以上離れたプレシデンテ・プルデンテまで棺を運んだ。やむを得ず、自らの土地に亡骸を埋める移民も多かったと聞いている」と話す。
星名は週刊『南米』発行のためサンパウロ市サンターナ区に事務所を持ちながら、ブレジョン植民地に家を構えていた。第三支部と呼ばれた広大な場所で、住沢さんによれば、周りは牧場で、線路から10キロほど離れた場所にあったという。
「植民地の人が星名さんの家を訪れることはほとんどなかった」と話す。広大な家々は離れ、移住地の人間とはほとんど接点がなかったが、土地の販売・管理を行なうため実務的な話しあいはあった。金銭のやりとりで見せる星名の姿がそのまま植民地での評価につながった。
星名から直接土地を買いながらも、彼の経歴を知るものはほとんどおらず、「ハワイ、北米と渡り歩き、そこで人を殺した過去があるらしい」という噂だけが広がっていた。現在ア・マシャードに住む人の間でも、その評価は変わっていない。
「星名さんはいつも不機嫌そうに黙っていた。日本にいた頃の話もハワイにいたことも話そうとはしなかった。とにかく恐い顔しか覚えてないね」。星名は過去を語らないことで有名だった。住沢さんから聞くことができたのは、共に暮らした1年間の体験によるものだけだ。(つづく、亀山大樹記者)
写真=住沢泰美さん(95)