ニッケイ新聞 2012年3月17日付け
栗林さんは「星名の周りには用心棒が沢山いた。特に星名と同棲していたお玉さんの弟の毛利伊三さんは『兄貴、兄貴』と呼んで慕っていた」とし、「植民地での星名の評価は大きく二分していたようです」と証言する。
住沢さんは母マスヨが21年に亡くなって3年後、父親ミナエが早世した。24年6月に星名の家が襲撃を受けてお玉が死んだ後、住沢さんは8歳で星名のもとへ引き取られてきた。
住沢さんは次男。3歳年上の兄ジツアキと3歳年下の弟タケキがおり、3人で暮らした。住沢さんの父親が愛媛出身と、星名と同郷で、生前知り合いだったことも引き取る理由だったようだ。
「60歳近くだったが、老けたおじいさんという印象はなかった」と語る。仕事はせず、よく馬に乗って出かける姿が焼き付いている。
星名の家は7メートル四方しかなく、玄関のある面だけがレンガ造りで、あとの三面は厚い板が打たれていた。「家には一度も入れてくれなかった。いつも窓は閉じており、中の様子も見たことがなかった」。かなり用心していたようだ。
3兄弟は星名の家の裏側に増築した部分で暮らしていた。「ベッドもなく、布の上で雑魚寝していた」と当時の貧しい暮らしを思い出す。
24年にソロカバナ代表として星名が、ノロエステは上塚周平が大使との間で85万円の低利資金融資「85低資」が日本政府へと請願された。3兄弟が星名と暮らしていたのは、星名が85低資のため奔走していた頃だ。「いつもサンパウロに行っており、月に5、6回しか帰ってこなかったし、帰ってきても家にはいなかった」。
住沢さんはよく星名に呼ばれ、10キロある駅までの道のりを星名とともに馬で走った。「『行くぞ』と必要な言葉だけしか言わない。出発はいつも早朝で、星名さんが前に乗って私はその後ろにいた。しがみつくと怒られそうな気がして、じっとしていた。駅で見送ると一人で馬に乗って帰った」と思い出す。
「勉強も働くこともできなかった。着ていた服も父と住んでいた頃のもので、星名さんからもらったものといえば拳骨ぐらいだったね」と住沢さんは笑う。食事を作ることもなく、自宅の近くに植えていたさつまいもを兄弟で料理していた。
「いつも怒りんぼうでわけもなく叩かれていた。特に兄はいたずら好きでよく近くにあるものでコツンとやられていた。父親のような存在とはとても思えなかった」。それでも「優しい印象はなかったけれど、働けない子供を引き取ったのは責任を感じていたからじゃないかな」と思い返す。兄弟を引き取ったのは、愛する人を失い、還暦を迎えた孤独を紛らわせるためだったのかもしれない。
12月のある早朝、星名はバウルーへ向かう列車に乗る直前、駅のホームで凶弾に倒れた。犯人は、星名がかつて珈琲植え付け請負人として雇って、働きが悪いために解雇したブラジル人だった。25年12月14日付けサンパウロ州新報の訃報では、星名が日本に残した妻子に触れ「ここ一、二年の内には帰国し眞の温みに浸りたいとは常にもらす言葉だった」とある。
「亡くなった時、私達兄弟は家に居ました。その死は街に出て初めて知りました。正直に言えば、やっと解放されると兄弟で喜んだことを覚えています」と住沢さんは率直に語る。
星名の急死とともに、3人兄弟はお玉の兄弟である毛利一家に引き取られた。兄弟は別々になり、住沢さんは哲夫のもとへと預けられた。兄弟とはそれっきり会っていない。同地で農業を続け、今では第三支部で娘達に囲まれて暮らす。
栗林さんも「植民地でも『星名がもう少し生きていたら、植民地は更に栄えていただろう』と言う人も多かった」と言うものの「今でも、『銃で打たれたのだから恨みを買うような事をしていたのだろう』との認識が占めている」と続けた。
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日本移民の2大集団地、ハワイでもブラジルでも最初の邦字紙経営に参画するという移民史上、類稀な経歴をもつ星名だが、その最後は実にあっけないものだった。一世紀が経った現在、ア・マシャードにすら彼を直接知るものはほとんどなく、年に一度の招魂祭の時に幾人かがお参りに訪れるのみだ。(終わり、亀山大樹記者)
写真=ア・マシャード日本人墓地にある星名の墓