手塚氏は84年の来伯時にサンパウロ市、リオ、ブラジリアの3市で講演会を行った。そのさい通訳として同行したのが、のちに同基金の職員を長く務めた高橋ジョーさん(58、二世)だ。当時、日本留学を終えたばかりの高橋さんは、自身が漫画家を目指して修行を積んでいた。
「だから『通訳やらないか』と声がかかった時、『夢みたいな話』と即座に引き受けた。手塚作品で日本語を学んだのみならず「人生観念や哲学、倫理も教わった。手塚先生は漫画の神様ではなく〃人間の神様〃だった」と語る。
通訳として同行する中でこんな経験もした。マナウスでボートを借りてアマゾン川探検に。手塚氏は大自然に感激し、写真撮影をしようとボートから岸に飛び降りた。乾いた岸だと思った場所は実は泥地。手塚氏の身体は沈んでしまった。驚いた手塚氏を皆で引っ張り上げたという。
「あの愛用のベレー帽が縮んでかぶれなくなった。『帽子は自分の体と同じ』と、怒ってホテルでしきりにアイロンで伸ばす先生の姿は、まさに漫画だった」と懐かしい一コマが蘇る。
ブラジル料理で一番のお気に入りはポン・デ・ケージョ。「あの餅みたいなパンをもう一個食って帰りたい」。日本へ経つ直前に、ソウザさんや見送りの一行と共にパンを探しに出かけたことも懐かしい思い出だ。
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ソウザさんが現国際交流基金から派遣され訪日した1995年、手塚氏はソウザさんを連れて里帰りした。上京後初にして最後の里帰りだった。宝塚劇場、子どもの頃に遊んだ公園、手塚治虫記念館など思い出深い場所を訪れた。
ソウザさんは「この数日間、兄弟のように過ごし、たくさんの話をした。人生、夢、これまでに達成した目標や、そのために犠牲にしたこと…そして将来について語りあった」と振り返りながら、おもむろにチョコレートの包みを開けほおばる。「だけど、僕は責任を持って仕事をするが、手塚さんほど慢性的にはやらない」と笑う。
場所を移動する際のタクシーの中や、眠りながらもペンを走らせていたなどという逸話はよく知られる。「手塚さんは本当に規律正しく、自分に厳しい人だった」
最後の面会で手塚氏は、スタジオでのトラブルや家族を顧みず仕事をしてきたことを話し、暴力的な表現に溢れた漫画が流行していることにいく分かの責任を感じていることを明かした。
ソウザさんに自分の姿を重ね「人生は仕事だけじゃない、自分と同じ間違いをするな」と熱意を込めて語ったという。
「緑の宝物(Tesouro Verde)」編の下巻(44巻)は3月末に販売予定。共同制作を願った背後には、世界平和の希求と暴力的表現に歯止めをかけたいとの強い願いがあった。漫画で日伯を繋いだ手塚氏の平和への願いが、ソウザさんを通して当地でも広まっていくかもしれない。
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手塚氏は訪伯後数年を経た1987年から3年間、小学館『ビッグコミック』に『グリンゴ』という作品を掲載した。未完の絶筆作品で、ブラジルのサンパウロ市を舞台にしたと思われる作品だ。駐在員が南米で日系人の〃勝ち組村〃を見つけるところから物語は始まる。
当然、ブラジル訪問体験が反映された作品になっていただろう。日系人社会や異国から見た日本を描き、「日本人とは何か」を問いかけようとしていた。もし完成していたら、どんな日系人像を描いただろうか。(児島阿佐美記者、終わり)