ホーム | コラム | 樹海 | コラム 樹海

コラム 樹海

ニッケイ新聞 2012年4月6日付け

 渡部南仙子は1928年渡伯であり、その俳句結社が今まで続いていたこと自体立派なことだ。最初に配耕された文化植民地で俳誌『石斧』を汀太浪らと共に刊行し、これが最古のコロニア俳誌といわれる▼南仙子句集『地の裏にて』(65年)に寄せて、日本荘で有名な三好さとるは「論じて何人も恐れず一言半句の妥協も赦さぬ性は横暴に横車を押すの観を抱かせて文壇に氏の真意を曲解する多くの敵を自ら作りケロリとして居る愉快な不感症者である」と寄せた。また北島府未子も「俳句の鬼という言葉がピッタリだなァ」と書いた▼水彩画、蝶の羽を貼り付けた蝶絵などの個展も開き、卵殻研ぎ出しの作品をコロニア工芸展に出品したこともある多芸で知られた人物だ。同人の年間句抄、5年毎の記念句集はもちろん、袂を分かったはずの朋友の飯沼山魄句抄『魔燻婆』、石川芳園句集『春風』なども作成した情に厚い人物だった▼代表句は「水巴忌や俳句業病地の裏に」といわれる。水巴は、南仙子が父の代から投稿していた俳誌『曲水』の創立者・渡辺水巴のことで、いわゆる花鳥風月とは一線を画し、情調本位の俳句を標榜していた▼南仙子は常々「俳句は業病だ」と口にしていた。「地の裏」とは地球の反対側でも、やれ水巴忌だと俳句に拘り続ける自らの心情を詠い込んだものであろう▼畔柳道子さんによれば、晩年は息子と住むロンドリーナから夜行バスでサンパウロ市の句会に通っていたが、その車中で一晩百句を詠んだこともあるとか。まさに「業病」的な凄まじい作句姿勢だ。あの世で〃病〃は癒えただろうか。(敬称略、深)