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(5)=ノロエステの開拓起点へ=合同で先没者追悼法要も

ニッケイ新聞 2012年4月18日付け

 午後3時半頃、交流を終え恒例の「ふるさと」を合唱し、握手で別れを惜しんだ一行。長田さん夫妻の梅干や梅酒に目を留めて購入したり、個別に話をしたりしながらバスに乗り込み、会員らに見送られながら次の目的地、バウルー市へと出発した。
 ボツカツから約95キロで人口は約35万人。かつてノロエステ地方への開拓の起点として栄え、戦前は領事館が設置されていた。日本移民とは縁が深い地だ。
 『バウルー日伯文化協会 創立五十年の歩み』(バウル—文協五十年の歩み編纂委員会)によると、バウル—の地を最初に踏んだのは郊外のサンタブラジリア耕地に入耕した高知県人で、1914年5月のこと。その翌年は滋賀県人が駅前で旅館、2年後に福岡県人が雑貨商を開業したという。
 その頃はまだ田舎町で家屋も少なく、日本人植民者によるノロエステ開拓が始まった頃だ。
 約2時間後にホテルに到着しチェックインした後、「バウルー日伯文化協会」会館へ。鳥居を模した立派な入り口の前で、待っていた会員らの出迎えを受けた。
 モダンなサロンにバウルー側から150人が集まり総勢約270人が揃うと、午後7時頃から先没者追悼法要が執り行われた。合掌の後、導師の伊藤功さん(60、愛知)の読経で一人ひとり仏壇を前に焼香した。
 養蚕移民としてバウルーに入った文協老人クラブ副会長の益山義則さん(74、鹿児島)は歓迎の意を示し「同県人なら家族のような親しみを感じる。ふるさとの話をし合う、楽しい夕べを過ごしてほしい」と挨拶。
 団長の本橋幹久・鳥取県人会長が園田ネルソン会長(65、三世)に県連の事業報告書、昨年の日本祭りのDVDを手渡した。
 本紙代理人の酒井威夫さん(83、北海道)は1933年に第3アリアンサに入植し、48年からバウルーで野菜作りに携わった。「戦後、田舎では仕事がなかったので都会に出て蔬菜を作る人が増えたね」と振り返る。
 生産者と同時に仕入れ業者も多く出入りするようになった。『歩み』によれば57年頃から再度日本人が増え始め、翌年の調査では市内、植民地、郊外合わせて約600家族。80年代半ばには人口25万人を擁する都市に。「昔に比べると大都会になって住み辛くなりましたが」と笑う。
 バウルー文協の会員は、非日系を含め現在250〜300家族。約30年前までは一世がほとんどだったが、現在は二、三世が中心。忘年会、新年会、コーラス、将棋、卓球、剣道、フットサル、バレー、太鼓など様々な活動が活発に行なわれている。特に運動会や盆踊りは非日系人も多く参加、園田会長は「いつもすごい盛り上がりだね」と喜ぶ。
 法要のあとは隣接する広い体育館に移動。婦人部による手作りの食事を楽しみながら、交流会へと移った。(つづく、田中詩穂記者)

写真=順番に焼香する参加者一行