ニッケイ新聞 2012年4月19日付け
今月13日、ポア市営墓地。援護協会の菊地義治会長、森口イナシオ、酒井清一両元会長と幹部ら数人によってしめやかに葬儀が営まれた。送られたのは東京出身の宝田豊造さん、91歳。ご存知の読者もおられるだろう。個人として援協に最高額の寄付をした篤志家だ▼1988年に竣工した日伯友好病院には、14キロ半の金塊(当時1800万円相当)と2万ドルをポンと寄付。社会福祉センター建設時にも寄付第1号として7万レアルを届けた。「うちに置いていても盗られるし、天国には持っていけないから」と事も無げだった▼29年に家族8人で移住、コロノ生活を送った。出聖後は主に医療器具の販売員として米寿を迎えても現役だった。「援協の世話になることはほぼない。よく歩くから健康」と笑っていたという。それでも1カ月前ほどから、調子を崩して友好病院に。亡くなる前日、見舞客に元気な姿を見せていた▼「面倒臭いから」と独身を通した。住んでいたブラス区のキチネッチを訪れた元本紙記者によれば「部屋だけみれば福祉部が救済に乗り出すのでは」という生活ぶり。コンロはなく壊れた冷蔵庫に木製の古いベッド。ほつれの目立つ服は「廃品利用」と笑い飛ばした。唯一の娯楽は文協図書館で借りた本を休日にゆっくりと味わうこと。「清貧」を地でいった▼献身的な寄付を決めたのは「我らの病院を我らの力で」というスローガンに惹かれ、援協の将来性に賭けたからだとか。いみじくも菊地会長はかつて宝田さんを「コロニアの宝」と評した。金額の多寡に関わらず、こうした〃宝〃あっての援協であることを忘れまい。合掌。(剛)