ニッケイ新聞 2012年4月21日付け
いわゆる「メノナイト」、パラグァイで通称「メノニタ」と呼ばれる新教メノー派の集団移住の経緯に就いては案外知られていない。その起源は聖書の神の御言葉に基づく教理に依ったもので、ドイツ北部及びオランダで起きた十六世紀のマーティン・ルターの宗教改革に端を発する。
その名称は元カトリック司祭のメンノ・サイモンズに由来し、追従者は一般に〃メンノ使徒〃と呼ばれたが、後には単にメノナイト、即ちメノニタと称されるに至ったものである。旧教より離反した新教派の一グループに属し、徹底した平和主義を信奉し、兵役義務を拒否し、いかなる武力奉仕も忌避する宗教集団である。
昔メノニタはヨーロッパで酷い迫害を受け、ゆえに他の比較的寛容な地域を求めて移住せざるを得なかった。
欧州で迫害受けロシアへ
その内の一つがプロシアであった。オスマン・トルコのクリミア半島を征服した帝政ロシアのツアー、女帝カテリーナ二世は植民地化政策を1780年に企画し、その開発にプロシアのメノニタに移住を勧めた。
そして反対給付条件として兵役義務の免除と土地の無償分譲及びドイツ語の使用を認めた。多くのメノニタはその勧誘に応じ、ロシア南部の農牧業開発に大きな貢献を成した各地メノニタ植民地を建設した。
およそ100年後にロシア政府はメノニタに与えていた特権の削減政策を実施するに至り、1877年には約1万8千人ものメノニタがアメリカ合衆国やカナダに集中移住した。このため、ロシア当局は同政策の緩和を計り、残った者達は繁栄し続け、第一次世界大戦初期までロシアには約12万人のメノニタが在住していた。
しかしながら、1917年のボルシェビキ革命はメノニタ植民地の崩壊を来たし、宗教迫害の犠牲になり多くは餓死した。そして、カナダ及びアメリカのメノニタ団体の連携運動によって、その多くが同両国へ救出された。なおパラグァイはチャコ北部の土地を提供し、最初のメノニタ植民地がパラグァイに出来たのは、日系ラ・コルメナ移住地よりも10年早い、1926年の事であった。
1920年代以降南米へ
その後もメノニタの入植運動は続行し、メキシコやカナダの政策に不満なメノニタが20年の間パラグァイに転住し続けた。なお、ソビエトから追放されたメノニタの新たな集中移住を見たのは1945年であった。
つまり、ロシア戦線で敗北したナチス・ドイツ軍と共に逃亡したのだが、赤軍に捕われソビエトへ連れ戻され、銃殺されるか又はシベリアへ強制送還される恐れがあったのである。
ロシアから最初のメノニタが直接パラグァイに入植したのは1927年で、その前の年には、1877年にカナダへ転住したメノニタの子孫がパラグァイに来た事は前述の通りである。しかし、その実現には難儀に満ちた経緯があったのである。当初南米では先ずアルゼンチンがメノニタの移住先国として検討されたが、同国はメノニタの兵役義務忌避に難色を示していた。
交渉責任者は、ニューヨークのChatam Phoenix Natinal Bank and Trust CompanyのMcRobertsと言う銀行家で、その元不動産エージェントのFred Engenがいろいろ現地で折衝に当っていたが、中々らちが明かず、代替案としてパラグァイのチャコへのメノニタ入植を検討していた。
あたかもMcRobertsのアルゼンチン入植プロジェクトが消散するかの矢先、McRobertsはアスンシォンからEngenの電報に接した。それは“I have found the promised land”(我、正に〃約束「カナン」の地〃を得たり)と言う内容であった。そして、当時の為政者マヌエル・ゴンドラ大統領とエウセビオ・アジャーラ外相に面接し、最終的にメノニタのチャコ入植計画の成就を図るべくパラグァイへの出張をMcRobertsに要請したのである。このメノニタのチャコ拓殖計画のニュースは、パラグァイ社会で一般に好感を以って迎えられた。
チャコ開拓で死屍累々
パラグァイ政府は国家政略としても当時は無人境の大チャコを、ボリビアの傍若無人な日増しに露骨化していた侵入から守る為に、火急的に拓殖・開発する必要に迫られていたのである。
太古は海の底だったと言われる大チャコ、即ち西部パラグァイは、地質も東部とは全然異にし地下水は塩分が多く、雨量も少なく気候は熱帯性で人間の生活には厳しい風土条件である。
そのように苛酷な地、中央チャコの現フィラデルフィア市(チャコの首都と目される)地方に入植したメノニタは当初は言語に絶する苦難に面し、病気や労働事故で亡くなる者は、ハエが死ぬ如く続出したと当時を知るパラグァイ人は語る。
そして、ボリビアとのチャコ戦役(1932〜35年、石油メジャー、英蘭系シェール・ダッチハーバ対米系スタンダードオイルの代理戦争だった)ではパラグァイ野戦軍の一糧食供給源として貴重な寄与を為したのである。
世界メノニタ協議会の2006年の資料によると、メノー教会に属する信者会員は全世界で150万人を数え、パラグァイには3万人が主にチャコ地方と、それに東部パラグァイ数ヶ所にそれぞれ分布居住し、ラ米諸国中で最大のメノニタ社会を形成している。
パ国農業界に大貢献
そして、メノニタ植民過去80有余年の業績は、眠れる大チャコの目覚めを促したと共に、パラグァイ農牧産業体系の改善に画期的な刺激を与えたのである。
その秘訣は、メノニタ組織の信念、勤勉、団結の3要素であり、宗教思想に基づく組合主義に象徴されるのである。
そして、メノニタのパラグァイ経済全体に対する貢献度を示す顕著な例を挙げれば、乳製品75%や輸出牛肉80%の他、農産物では南京豆、モロコシ、胡麻、綿花、ヒマ等の生産が重要なシェアーを占めるのである。
アマゾン開拓の先覚者と言われる海外植民学校の創立者・崎山久佐衛先生は理想の村落に不可欠なのは教会、学校及び協同組合であると説かれた。それはメノニタ精神やアメリカの大を成したピューリタン精神に相通じるものがある。
パラグァイで戦後、存続が危ぶまれたラ・コルメナ移住地の起死回生に絶対的な役割を果たした、ラ・コルメナ産業組合の創立指導に当った筆者の継父故酒井好太郎は、その崎山精神を正に踏襲した教え子であった。パラグァイでメノニタの今日有るのは、崇高なる一本の筋金が通った組合主義によるもので、仮そめにもそれが金権主義等に染まれば本然の特質が失われるであろう。