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(8)=〃ブンカ〃入植者子孫も=米国排日運動の影響強く

ニッケイ新聞 2012年4月24日付け

 パラグァスー・パウリスタ文協の会員数は約100家族。会長8年目の佐々田アントニオさん(42、三世)の歓迎の言葉で交流会は幕開けし、食事を交えた歓談が始まった。
 パ・パウリスタ市はサンパウロ市から北西に422キロで、人口4万2千人余り。この地にはかつて「ブンカ」と呼ばれた植民地(以下、文化植民地)が、ソロカバナ線パ・パウリスタ駅の北東約20キロの地点にあった。1920年代半ば、米国に住んでいた約100人の日系人が代表者と資金を送り作らせた。
 『消えた移住地を求めて』(小笠原公衛著、2004年)によると当時、米国の日系移民は人種偏見からくる排日運動で圧迫され「外国人土地法」で土地の所有を禁じられていた。
 彼らを救うためブラジルに再移住させようと考えたのが、移民が集中していた米国サンフランシスコに住んでいた森惇吉牧師(故人)だ。
 森牧師は1919年に各地を視察し、23年に再度訪伯した。これに同行したサンフランシスコに住んでいた輸入商、山田登幸氏(山梨県出身)とともに計画を煮詰め、移住希望者を募ると約100人が応じた。
 希望者はそのまま米国に待機し、山田氏は個人的な資金を持参して1925年、家族を伴って渡伯した。広さ2060アルケル(約5千ヘクタール)の原生林が生い茂る土地が、北米の応募者たちに分譲された。
 実際の開拓が始まったのは翌年6月。原生林の伐採、コーヒーの植え付けが進められ、ブラジル国内の他地域からの日系人コロノや「力行会」など日本からの呼び寄せ青年、ブラジル人労働者が作業にあたった。
 開拓資金は米国の地主から送られしばらくは潤沢にあったという。彼らが北米から入植するときは、コーヒーが収穫できる5年先の予定だった。
 ところが、27年に持ち上がった地権騒動で開拓作業が遅れ、山田氏が分譲済みの土地を担保に銀行から多額の借金をしていたことから植民地経営は火の車になった。北米の地主達が徐々に入植し始めたのは、騒動が一段落ついた後だった。
 交流会には、その当時の日系人入植者の子孫も姿を見せていた。西沢裕美さん(80)、ミドリさん(89)夫妻だ。
 裕美さんは日本生まれ。山梨県出身の父は独身で米国に移住し、日本で結婚。ミドリさんは22年に米国で生まれ、それぞれ3歳、4歳のときに文化植民地に入った。
 現在の会館のある場所から24キロのところにあった。「原始林で最初は家もなく、板間の家に住んでいました」とミドリさん。
 「父はアメリカで排斥を受け、土地も買えなかった。それでブラジルに来ていろいろ見て回り、土地と家を買ったみたい。二度とアメリカには戻らないつもりだったようです」。(つづく、田中詩穂記者)

写真=敷地の入り口に立つ鳥居。開拓が始まって7年目に文協ができた/挨拶した佐々田会長