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『子供移民 大浦文雄』を読む=モジ 則近正義=第1回

ニッケイ新聞 2012年5月23日付け

 モジ在住の詩人・則近正義さんが、スザノ福伯村の旧友である大浦文雄さんが出版した『農村に生きる或る準二世の軌跡』を読んだ感想を本紙に寄稿した。大浦さんの人生と自らの経歴を重ねながら、文芸を愛する戦前の準二世の心情が深く記述されており、当時のスザノ、モジの文化活動の活発さをほうふつとさせ、寄稿文自体が一種の地方文芸史ともいえる興味深い内容であり、コロニア社会面に掲載することにした。(編集部)

《言いたいのではない
書きたいのではない
行動したいのではない
ただ吐き出したいのだ》(暗い日の自画像、大浦文雄)
 このほど、旧友・大浦文雄君が『に生きる或る準二世の軌跡』を寄贈してくれたのを読んだ。あとがきを読むと、《孫、子のために伝記を編んだ》とあり、生い立ち(香川県坂出市江尻)から現在にいたるまでの87年間の大浦君の貴重な人生の足跡が236頁に書き記してある。
 第1頁から終わりまで、どの頁を読んでも、物凄く複雑な内容である。一風変わった表紙だ。その説明文を見ると《備後丸に乗船した子供移民(浮輪の横2人目が文雄とおもわれる)》と説明してある。
 備後丸の甲板に並んでいる約百人の子供の中には暗い表情の子が少なくない(大浦君の顔はそれほどでもないが)が、生まれ故郷をあとにして渡伯するのは子供心(子供移民の)にも矢張り悲しかったのだろう。
 何れにしても本誌の題名の『子供移民』に最も相応しい表紙である。
 大浦君と僕は、同じ時代の準二世で類似点が非常に多い。その幾つかを拾ってみよう。
 ①各地を転々と移転した。大浦君はサンタエウドーシアが最初で、スザノ北部に移転、後モジ・ダス・クルーゼスのコクエーラ植民地(長尾農場)に入植、数年後には今まで住みつづける福博村に落ち着いた。僕はレジストロ植民地からモジに来ただけだが、モジだけで6回移転した。
 第2次世界大戦が始まり日本語の勉強が出来なくなり、寧ろ反抗的に文学に頭を突っ込み、詩を創り始める。
 ②ブラジル語の勉強をつづけなかった。(大学に行かなかった)
 ③知人から本を借りて読んだ。大浦君は「第2章 青年期」の中に、《八巻君の紹介で重松老人から長谷川如是閑農村の『現代社会批判』『現代国家批判』等を借りて呼んだ。加納亀三郎さんから『啄木全集』を借りて読みふけった。佐藤さん(近衛兵だった)から外国文学の魅力を覚えた。ダヌンチオの『死の勝利』に強い印象をうけた。吉沢要平さんから『藤村詩集』、徳富蘆花の『思い出の記』などを借りて読んだ》と書き残している。
 僕は短歌の先輩、岩波、武本、徳尾、坪内広代達の蔵書は片っ端から次々に借りて来て1冊残らず全部読んだ。
 第2次世界大戦前後は日本語の本は手に入らなかったから、準二世だけではなく一世も二世も、日本語の本は借りて読む外なかった。
 ④読書して感銘した個所は帳面に書き取った。(大浦君は『藤村詩集』は全て書き写したという。僕も筆写した帳面が十数冊あった。中の1冊は坪内さんから借りた『万葉集』の中の短歌が書き取ってあった)。
 「第2章 青年期 詩との出合い」に、《テキストは早稲田中学講義録であった》と書いてある。僕も講義録を親父に買って貰うように頼んだが、「中学講義録は売り切れて1冊もなかった」(南米堂書店。南米時事の社長で椰子樹同人歌人・仲間美登里の店)と言って女学講義録を買って来た。
 親父が僕の名を出したら特別に割引してくれたそうだ。男性には用のない裁縫、生け花、家事、行儀作法の部があったが、僕は日本語の文法を一通り勉強することが出来た。
 ⑤夜、ランプやカンテラの灯で勉強した。(大浦君は「暗いカンテラの灯の下で」(41頁)、「暗い石油ランプの下で独学した」(61頁)などと書いている。当時の農村は電気が未だ普及していなかったから、大浦君と僕だけのことではなかったけれど)
 未だ幾らでもあるが、これ位にして置く。(つづく)