ニッケイ新聞 2012年5月26日付け
高野芳久と僕はサントス丸の同航者である。
本誌にも書いてある高野耕声の名作『井戸』と僕の『断絶』は、コロニア小説選集に一緒に掲載されている。もう1人の同航者・梅木昌之(本名、袈裟夫〔けさお〕)の『切手』も一緒に——。
同じ小説選集に、同航者3人の作品が同時掲載されているのは、恐らく唯一で、外にはないだろう。
この時の輸送監督は佐藤常蔵さん(再渡航。1等船客。当時27歳で、これまでの全輸送監督中の最年少)であった。
本誌の「文雄とアルモニアの関係(178頁)」に、《1953年9月、学生寮の落成式に参列、学生会代表の佐藤常蔵(つねぞう)の「新しいフロンディァ精神をもって、ブラジル社会建設に参加せよ」というあいさつに深く感銘する》と記してある。
佐藤さんは、「あんたの作品集を、一つずつ、次々に出しなさい」と会う度に言ってくれた人だが、僕が「僕の作品は、未だ1冊に纏めて世に問う程の価値のあるものではないです」と答えると、「〈世に問う〉という意味ではなく、〈記録として〉ぜひ残しなさい」と言われた。
大浦君とは余り関係のないことだが、梅木袈裟夫のことを少し書く。
前述した通り梅木は僕の同航者で、活字のような几帳面な美しい字を書くので、さんとす丸船内新聞(日刊)を担当して謄写版で刷って船内に配っていた。
チエテ植民地に入植したが、間もなく僕が住んでいたレジストロの郷の事務所の書記をしていた。(当時、レジストロは植民地と言わずに〈郷〉(ごう)と呼び、会長と言わずに〈郷主〉と言った)。
僕は田舎に住んでいたが、家から6キロ半あった町の学校(グルッポ)に通っていたので、親父に頼まれた新聞を郷の事務所に毎日取りに行っていたが、話し合ったことは一度もなかった。
その後、コチア産組本店の永年コゲ付いている組合員の借金取立て係に抜擢され、不良組合員達から怖がられていた。
結婚して、高野耕声の貸しアパートのビルに永年住んだ。僕が『椰子樹』を編集していた頃は、本名で短歌を盛んに発表していた。アポゼンタして奥さんを亡くし、子供が1人もいなかったのでイペランジャホーム(有料ホーム)で暮らすようになった。
一度、大浦君に、イペランジャホームに梅木という同航者がいるが、どうしているか調べて呉れないか、と頼んだことがあったが、大浦君は忘れたらしく何とも言って来なかった。
イペランジャホームでは、日本の同人雑誌『文芸主都』に入会して小説を次々発表していると誰か(石橋誠也君だっただろう)に聞いたことがあった。
袈裟夫の弟と僕は同年で、日本の尋常科を卒業していたので船内の日本語学校には入れず、高等科と中学校は先生をする適当な人が見付からないと言ってなかったし、青年会には「未だ、お前達はその年じゃない」と言って入会を断られたので、航海中は、仲良く一緒に行動する仲間だった。名前は覚えていない。
救済会の理事となった大浦君は間もなく、日系コロニアの中心的機関の総べて(救済会、援協、憩の園、サンパウロ文化協会、アルモニア学園、日伯学園、パウリスタ児童療護会等)と関わりを持つようになり、役員会に於ける彼の進歩的で建設的で有益な発言は常に注目された。
福博村の大浦文雄は、日系コロニアの大浦文雄となり、コロニアの代表として何回も訪日するようになる。これまで、7回訪日した。
第5回訪日の時は、大浦君の叙勲授章式に参列する為で、夫婦同伴で訪日する。授章式前後の模様や、外務省や皇居(豊明殿)の様子が詳しく書いてある。
7回訪日した大浦君は、日本の超一流の高官達(総理、大使、知事、衆議員達)と同等に話を交しているが、4歳で渡伯した子供移民の大浦文雄は永年の自己薫陶によって、高度の人間性(或いは、ヒューマニズム)を自然に培っており、それが万人に認められていたという証拠に他ならない。(つづく)