ニッケイ新聞 2012年5月29日付け
大浦文雄にとって詩は活動の指針であり、生を営む羅針盤であった。従って、詩は大浦文雄から絶対に切り離すことの出来ない物である。今後も、きっと詩を綴りつづけるだろう。
高原純(ペンネーム。本名=井本惇〔あつし〕)は、大浦君の生涯の中で、最も心を開いて付き合った心友(親友ではない)の1人であった。
大浦君は、彼との出合いから、オルトフロレスタール墓地に埋葬するまでを第3章に9頁(123〜133頁)に亙って記述している。特に、葬式の模様がさながらに手に取るように克明に描写してある。
ここに引用してある5篇の10行内外の短い詩は、総べて読む者の心の奥深くにジィーンと響いて来る好篇ばかりだ。
この一連は偉大な足跡を日系コロニアに遺して、年若くしてこの世を去った異才・高原純に捧げる鎮魂歌である。
第3章に、横田恭平との確執について6頁(148〜154頁)に亙り書いてある。少し長くなるだろうが、その当時の経緯について書くことにする。
1981年10月10日のパウリスタ新聞に「コロニア文芸賞に対する詩壇の態度について 亜熱帯詩社 横田恭平」と題した1文を、横田さんが独断で発表した。
文化協会が「コロニア文学賞」を「文芸賞」と名称変更して、横田さんは同賞の選考委員に委嘱されたが、《ジャンルの違うものを審査することは出来ない。亜熱帯では委員会を開き同人達の意見を諮った(これは事実ではなかった)所、このやり方では権威ある選考は不可能という結論に達し、詩のジャンルは参加しないことになった》と文芸賞を否定した文章を発表した。
大浦君たち亜熱帯の同人は、横田さんの意見に一応賛成し、大浦君も審査員を辞退した。
この問題は、意外にもコロニア文壇に大きな反響を呼び、何人もの文芸人(尾関興之助〔おぜきこうのすけ〕、井本惇、醍醐麻沙夫達)が次々と意見(批判文)を発表し、新聞の記事にもなった。
それから3年後、コロニア文芸賞委員会は、横田さんの詩集『スザノ第3』をその年の文芸賞に選考した。前のことがあるので、大浦君は横田さんに手紙で書いて、辞退するように説得した。
が、横田さんは「純粋な心を持って委員会が祝福してくれている」と言って、大浦君の言うことを聞こうとしなかった。この時大浦君は、「俺の中では横田恭平は死んだ。俺はゆるせん」と心の中で叫んだそうだ。
横田さんの息子は父親を受賞式に連れて行く意志が全くないので、大浦君は自分の車に横田さんを乗せて連れて行った。受賞式の会場には入らず、外で待った。
会場内で心配する人に、横田さんは「大浦さんという人は、そういう人です」と悲しそうに言ったという。受賞式が終ると、また車に乗せて連れて帰った。
それから何年か経って、危篤状態に陥った横田さんはイタケーラの長女の家で療養していたが、「〈スザノが宇宙の中心である〉と信じて止まない横田さんは、スザノで死なせるべきだ」、と大浦君は言って横田さんの家に連れて帰った。
間もなくスザノのサンタ・カーザに移された横田さんを、「俺はゆるせん。絶対にゆるせん」と心の中で叫び乍ら、3日3晩、側から寸時も離れずに看病した。死水用の綿棒を薬局に買いに行っている間に、横田さんは息を引き取った。
翌日、スザノ墓地でも、大浦君は心の奥で「許せん。絶対に許せん」と呟き乍ら告別式の司会を務めた。
〈2人の行いは、普通の常識では理解出来ないことが、余りにも多い〉と、コロニアの大勢の詩人、文芸人、知識人達の不評を買った。
けれども僕は、大浦君には心底から共鳴するし、深く頭を下げている1人である。
理論は理論、友情は友情——と、スカッと割り切れる人間は、世の中にはそう多くいない。人間の行動には、常に精神の裏付けが必要なのだ。(つづく)