ニッケイ新聞 2012年6月2日付け
世の中には案外知られず、忘れ去られていく事が多いものだ。移住事業の話も例外ではなく、日系植民地開拓史の裏には人知れぬ苦労話や、陰に隠れて日の目を見ずに埋もれて行く大切な何かが必ずあると思えるのは、パラグァイに限らずお隣のブラジルでも同じであろう。
その一例として、拓殖事業はただ単にコロニアに人を入植させるだけではなく、一つの高邁なる精神的なバックボーン(背骨)が無ければ心の籠もった指導は出来ず、及んではその発展の芽も摘み取られて育たない。
パラグァイの日本人移住発祥の地は戦前に建設されたラ・コルメナ植民地で、その功績が戦後の日系移住事業の逸早い再開に大きく貢献した事は広く知られている。
しかし端的に云って、このラ・コルメナ植民地も決して全てがバラ色であった訳ではなく、戦中戦後を通じて祖国との音信も、また日本政府の援助指導も断ち切られ孤立状態に立たされ、果ては自主自営自活の他に選ぶ道はなかった。
入植者の頼みのパラ拓(パラグァイ拓殖組合)事務所も自然消滅の憂き目に遭って、職員の生活をどうするかの先立つ問題さえあり、施設資産の売り食いも考えられた。この様な窮状下、ラ・コルメナ植民地最後の支配人日沖剛氏は、ラ・コルメナの前途に希望を失った多くの脱耕者が去った後の残留者に対し、産業組合の設立を呼び掛けたのである。
ところが、ここに一つの利害問題が起こった。即ち、組合とは云っても存続の問題に迫られたパラ拓職員に都合が良い組合にしたかった日沖支配人の部下の実力派達との話が噛合わず、いつまで経っても組合作りの話しが具体化しない。狭いコロニアで直ちにこの様な動きが分からぬ筈はなく、天下り式の組合組織案は当然入植者達には信用されず、全然進展が見られない始末だった。
そこで当時は既にパラ拓の職を去っていた、滅多に怒った事もない、実直な筆者の継父・故酒井好太郎(よしたろう)は、「こんな事では困る、パラ拓で組合が作れないのだったらワシが作る!」、と決然と立ち上がり、入植者の皆に呼び掛けたのである。
この清廉な酒井の私欲の無い熱誠に動かされて団結した残留入植者もさる事ながら、日系最初の法定組合ラ・コルメナ農協の設立(1948年)に大いに寄与した、先にも書いた事があるブラジル人の故ジュアン・ウリセス・カスタニャ博士と森谷不二男農業技師(昨年没)の貴重な協力が得られ、かくして組合創立の実現を見た裏の経緯は余り語り継がれていない。
そして、農家個別では銀行の農業融資の相手にもされなかったラ・コルメナ植民地には組合が出来たお蔭で、程なく国立農業銀行の支店が出来て、これを通じての組合員に対する営農資金の貸付が可能になった。加えて日沖支配人の決断に依って、旧パラ拓の繰綿工場、製粉工場、農機具修理工場等一切の共同利用施設が組合に移管され、ここにラ・コルメナの新たな村おこしの希望が力強く息を吹き返したのである。
この事実は戦前パラグァイ政府が試験移民プロジェクトとして受け容れたラ・コルメナがその民族的使命を立派に果した証しに他ならず、戦後の日本人移住の再開を逸早くパラグァイ側が認めた要因になった。
そうして、かつては華やかなりし日系第1号のラ・コルメナ農協も時勢の流れと色んな事情で衰微し、今でこそアスンシォン市近郊のアスンセーナ園芸組合と合併した。
だが、当時は戦後日系各移住地の良いモデルになり、逸早く各新移住地における組合の結成が行なわれ、入植者の生活安定や定着に寄与した。その後、移住会社及び海協連の統合で生まれた移住事業団(現JICAの前身)に引き継がれた拓殖事業も、より系統的に進捗し得たのである。
今では開拓初期の時代を経て、JICAよりインフラ整備や多岐にわたる利用施設の移管を受けた農協や日本人会等を中心に各移住地は立派に自立し、自治性を保ち発展している。
聖書で渋沢翁を説得した植民学校の創立秘話
さて、ここで最後に冒頭の崎山精神の話になるのだが、東京世田谷の海外植民学校の寄宿生だった筆者の亡父酒井は、良く崎山校長に銭湯へのお供を命じられ先生の背中を流しながら、最も身近に薫陶を受けた教え子の一人だったのである。
紙幅の都合で余り長くは書けないが、理想の村落に欠かせないのは教会(宗教心)、学校と共同組合の三つだと教えられた崎山先生は、なお巣立った子孫に何時でも尋ねて来れる良い故郷を残して遣る事、そして移民とは移住先の発展に尽くし最後はそこの土になる事だと説かれた。
これは、一攫千金を夢見て幾年かの後には日本に錦を飾る心算で移住して来た当時の多くの植民者とは、大分違う気概の話であった。
崎山先生は1914年から1916年にかけて米国と中南米を踏査した結果、日本民族の将来は南米以外にはないと確信され、帰国後に移住者養成の為に植民学校を創立した(1918年)。
崎山先生はこの学校を創設する資金援助を依頼する為に、渋沢栄一子爵を自宅にお百度参りをして説得に努めたが、渋沢翁は終始黙った侭で色好い返事がサッパリ無い。
最後に痺れを切らした崎山先生は、立ち上って渋沢翁の禿頭を片手で抑え、一方の手には聖書を持ちながら、持ち前の大声でお祈りをした。そしたら、さすがの渋沢翁もやっと折れて、学校建設の必要資金を出して下れたと言う。
そして、崎山校長は毎年学校の創立記念日には、学生を引き連れて渋沢邸(暖依村荘)を挨拶に訪れ、翁の訓話を聞き、茶菓子を御馳走になって一同帰って来るのが恒例だったそうである。
なお、ブラジルのアマゾン開拓の先覚者として知られる崎山比佐衛先生は、マウエスの地に魅され1932年に家族と共に移住し、太平洋戦争勃発(1941年)の半年前に永眠された。著書に『南米の大自然 アマゾンの流れを下りて』があったが、今では何処に失ってしまったものかどうしても見当たらない。
晩年、崎山先生は南米各地の教え子を訪ねて廻られた事があったが、パラグァイには都合が付かず、とうとう来られなかった。
ちなみに、卒業年代は様々だが、既に故人の石井道輝、酒井好太郎、奈良米蔵、島中直太郎、星野素太郎の各氏と、女子学部出身では故奈良夫人に笠松久子未亡人(此の4月に満100歳になられた)の一握りの校友がパラグァイには居られた。
以上の色んな話は、故義父酒井に筆者が子供の頃に聞かされた話で、多くはその受け売りで記憶に間違った点もあると思うが、特殊な専門学校だった植民学校出身者には自ずと一寸変った気風があり、皆良く崎山精神と言う事を話していた。
そして、筆者は筆者なりに第2次世界大戦直後、行く末があたかも危惧されたラ・コルメナ植民地を救ったのは、酒井好太郎に受け継がれた崎山精神に依る以外のなにものでもなく、引いてはその規範が戦後の日系移住地に活かされ、かつ遺されたのであると解釈したいのである。