ニッケイ新聞 2012年6月9日付け
「貴女からもらった宝石は親子二代で使っていますよ」—。コチア青年花嫁移住者の代表として地坂昌子さん(75、岐阜)が、1965年に皇后陛下に謁見した際に贈ったアクアマリンは現在、黒田清子さんに受け継がれているという。「赤間学院皇居勤労奉仕団」の副団長として今年4月9〜12日の活動後、皇后両陛下との謁見時のやり取りで分かった。
「まさか覚えていてくれているだなんて…」。皇后陛下からのまさかの言葉が、47年前に携えたアクアマリンの吸い込まれるような青緑の光沢を脳裏に蘇らせた。2カ月近く経つ今も感動冷めやらぬ昌子さんの記憶時計は「あのころ」へ逆回転を始めた——。
「独立したらブラジルに来てほしい」。当時交際していた地坂満夫さん(故人、1次5回)からそんな手紙が届いたのは、コチア青年としてブラジルへ渡った56年から2年の月日が経ったころだった。
パトロンの元で働く満夫さんを想い続けていた昌子さんも渡伯を決意。「こんなに遠いんだぞ!」。地球儀を手に翻意を迫る両親を振り切り、60年にコチア花嫁として渡伯した。
おりしも前年、53万人が沿道に押しかけたご成婚パレードがあり、日本中がミッチーブームに沸いた。結婚生活への期待と憧れは頂点に達していた。
しかし、待ち受けていた現実は甘美なものとは程遠かった。サンパウロ州ヴァルジェン・グランデ・パウリスタで半年過ごした後、アチバイアのタンケ入植地での独立農。あるのは見渡すばかりのカンナ畑。電気も水道もない生活が2年続いた。錦衣帰郷など夢のまた夢…。
その頃、コチア青年自身による日本国内での募集がメディアに取り上げられたことで花嫁希望者が殺到。講演活動のため昌子さんに白羽の矢が立ち、65年に思いがけない帰国を果たすことに。それに注目した全国拓殖農業協同組合連合会が宮内庁に働きかけ、謁見の機会が設けられた。当時の様子を振り返る。
「まさかそんなに早く日本に帰れるなんて思ってもいませんでした。しかもテレビのパレードで見たあの美智子様とお会いできるなんて…」
その際、コチア産業組合が用意してくれたアクアマリンを献上した。
「あまりの緊張に頭が真っ白になったことを覚えています。本当に喜んでくださって頷きながら私の話を聞いてくださいました」
その後—。バラ栽培があたった。3人の子どもと5人の孫に恵まれ、幸せな生活を送るなか、コチア青年銀婚式など謁見は4回を数えた。しかし65年当時の話が出たことはなかった。
勤労奉仕の最終日となる12日、5回目の謁見に奉仕団の代表者として臨んだおり、思いがけない冒頭の言葉を皇后陛下からかけられた。半世紀近く前に贈ったアクアマリンは指輪として皇后陛下に使われた後、黒田さんにペンダントとなって受け継がれたと聞いた。
「その話を聞いて、万歳三唱をするはずだった畑俊雄団長が、私にその役を譲ってくれました。あまりの感動に胸が一杯になって…3回目は言えませんでした」
アクアマリンを通じ、世代を超えて伝えられた皇后陛下の移民への想い—。涙を浮かべた昌子さんの笑みが顔一杯に広がった。