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崎山比佐衛名冠した公園=マウエスに州と市が造成=アマゾン入植80周年で

ニッケイ新聞 2012年6月13日付け

 崎山比佐衛(1875—1941年、高知県)といえば、東京に自ら設立した海外植民学校を通して多くの卒業生を南米に送り出したことで有名だ。校長職を辞した後、崎山はちょうど80年前の1932年に家族を引き連れて分校設立を目指してアマゾン奥地のマウエスに入植した。グアラナ栽培を志したが開戦直前の41年、67歳でマラリアに倒れた。その崎山を顕彰し、2010年のアマゾン入植80周年では「崎山比佐衛公園」が現地に開設されていたことが先ごろ分かった。リオ国際環境会議を目前にひかえ、アマゾンの大自然に魅せられた男の生涯を振返った。

 アマゾン河中流の最大都市であるアマゾナス州都マナウスから下流に約300キロ、河口の町パラー州都ベレンとのほぼ中間にパリンチンスがある。そこからボートで10時間も南へ下ったところがマウエスで、今ですら秘境といっていい立地だ。
 そこに2年前の4月、アマゾン入植80周年を記念して州と市により「崎山比佐衛公園」が開設されていたことが、崎山比佐衛の三男忍さん(故人)の妻・美智子さん(93、鹿児島)=サンパウロ市在住=への取材で分かった。
 当日はオマル・アジズ州知事、ミゲル・パイヴァ・ベレッショ市長も立ち会う中、崎山家を代表して比佐衛の孫・忍美さん(75、二世、美智子さんの長男)が晴れ晴れしい顔で出席し、命名プレートを除幕した。
 三角形の敷地の各頂点に鳥居をイメージした門が設置され、日本を感じさせる市民の憩の場となっている。美知子さんは「きっと崎山先生も天国で喜んでいることでしょう」と声を弾ませた。
 忍さんは81年にすい臓ガンで亡くなったことから、進学就職のために出聖していた子供に呼ばれ、妻の美智子さんもマウエスを出た。入れ替わりに、忍美さん(のぶみ)は「自分は長男だから後を見ないといけない」との責任感からベレンの大洋漁業を辞めて、82年にマウエスに戻った。
 同地にはアマゾン興業も植民したが、大戦により解散となった悲しい歴史がある。しかし崎山家は今も現地に残り、入植当初からの念願だったグアラナ栽培を続けている。
 澁澤榮一子爵ら著名人の協力の下、1918年に東京都世田谷に創立した海外植民学校の卒業生のうち、700人以上が南米(亜国、ボリビア、パラグアイ)に向かい、中でも300人余りはサンパウロ州に入った。卒業生にはパウリスタ新聞の創立者・蛭田徳弥、鰯缶詰工場を経営していた五十幡直義(いそばた・なおよし)、在聖総領事館の元顧問弁護士・大原毅の父・豊、ホーリネス教団の山本博康牧師ら各氏もおり、同校の存在はアマゾンに限らず移民全体に影響があったといえる。
 美知子さんは「先生は南米視察の折りにマウエスの砂浜を見てすごく気に入ったんです」と説明した。農場から町まで櫓でこぐと2時間半もかかるので忍さんが小船に帆をつけると、比佐衛は自然を愛する余り、「自分の力で漕げ!」と怒り、帆を蛮刀でズタズタにしてしまったという。
 熱心な求道者であった崎山はマラリアに罹りながらもグアラナ園へ毎日通い、必ず祈りを捧げてから鍬を入れた。美智子さんは「リオの国際環境会議のように、今でこそ自然や環境が尊重される時代ですが、先生は戦前からその気持ちを強く持っていました」と時代に先駆ける存在であったことを強調した。