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日本に戻るか定住か=デカセギ大量帰伯世代=(1)=「直ぐにでも戻りたい」=現在も残る未練と迷い

ニッケイ新聞 2012年6月14日付け

 2008年暮のリーマンショックに端を発した金融危機の影響で、日本に住むブラジル人労働者が「派遣切り」に遭い、3分の1にあたる約10万人が帰伯したといわれる。その中には既にブラジルに再適応して根を張ろうとする人、決心がつかずに悩んでいる人、日本に戻りたいと手を尽くしている人など様々なケースがある。わずか3年間で10万人が帰伯した未曽有の〃民族大移動〃である『大量帰伯世代』は、将来的に日系社会やブラジルに大きな影響を与える可能性があると思われる。「日本に戻るのか、ブラジルに定着するのか」。帰伯者らに聞いた。(田中詩穂記者)

 「できれば日本に帰りたい。今からでも同じ会社で雇ってもらえるなら、もう一度働きたいね」。そう訥々と切ない思いを語るのは、北パラナのロンドリーナ市内にある娘夫婦経営の美容室で、整体師として働く平野アントニオ定一さん(63、二世)だ。
 95年に訪日して愛知、岐阜で15年間働いた。アルミサッシや建材メーカーの工場でリフトを運転する仕事をする一方、「手に職を」と土日は京都の専門学校に通い、整体師の免許を取得した努力家だ。
 帰伯したのは金融危機が始まった直後の09年1月。失業したわけではなく、90歳の母親の面倒を見る必要があるという事情からだった。「日本にはできるだけ長く住みたかった」と、かみしめるように言う。「治安が良く便利で、町がきれい。仕事が常にあって、給料も良かった」と、日本の良さを挙げはじめればきりがない。
 デカセギ帰りの人の多さが目立つというロンドリーナ。平野さんの周囲には日本政府からの帰国支援で帰ってきたが再訪日を考えている人が少なくないという。平野さんも同地に滞在する必要がなくなれば、直ぐにでも日本に戻りたいとの気持ちが強いようだ。
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 「仕事は面白いけど、給料は少ないね」。天野ミウトン雅夫さん(62、二世)=サンパウロ市在住=はそう言いながらも誰に不満をぶつけるわけでもなく、ただ目を伏せる。96年に訪日して2010年2月に帰伯したため、日本での生活は都合14年間にもなる。
 当地では複数の職場を経て、現在はサンパウロ市内の企業に勤務する。今の職場では「日本に比べ年輩者に対する偏見が強い」とも感じている。「もう60過ぎているからね」と力なく笑みを浮かべた。
 「日本の悪い点は」と聞くと、少し考えた後で「特に思いつかない」と言った。群馬や広島に住んで職を転々とし、悪徳派遣業者に騙され借金を抱えたり工場で大けがをしたりと、困難は絶えなかったという天野さんだが、最終的な日本の印象は悪くなかったようだ。むしろ日本での暮らしに適応し、生活が安定した後は子供に仕送りする余裕もできた。
 金融危機後も日本語ができたために仕事に困らず、正社員として転職を決めていたが、妻の病気が引揚げの決断の大きな理由だった。「妻が健康だったら、日本に住み続けたかもしれないね」とつぶやく。帰伯時には揃えてきた家財道具などを全て売った。「また行くとなると、最初からすべてやり直しになる」と及び腰だ。
 ではブラジル定住に決めたのかと聞くと、「経済発展の可能性は高いかもしれないが、危険だし人のマナーも悪い」と祖国への印象はネガティブだ。
 「では今後どうするのか」との問いに、「どうなるかわからないね」と言葉を濁した。「とにかく今やっていることに集中したい。日本がいいかブラジルがいいか、あまり考えすぎても意味がないし」と歯切れの悪い様子で視線をそらした。
 戻るのか、定住するのか。この問いを抱えて日々迷っている帰伯者は、きっと数万人規模でいるに違いない。(つづく)
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 日本の厚生労働省は09年4月、経済危機で失業した在日ブラジル人労働者を対象に帰国支援金制度を実施し、1万5千人以上が帰国したといわれる。原則として「3年間」まで同様の在留資格で再入国を認めないという条件付きだったが、今年の3月で政策実施から3年が経った。
 本紙読者から「4月の時点で3年間なのか、それとも各人が帰国した日から数えて3年間が訪日禁止なのか」と数え方の解釈に関する問い合わせが複数寄せられ、在聖総領事館にも同様の問い合わせが頻繁にあったが、担当領事は「法務省と厚生労働省のスタンスが決まっておらず、指示が来ていない状態」と返答した。

写真=平野さん。日本滞在中に取得した整体師の免許を生かし、美容室で働く(1月28日撮影)/本紙で取材に応じた天野さん(2月27日撮影)