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日本に戻るか定住か=デカセギ大量帰伯世代=(5)=「子供の教育をブラジルで」=学齢期迎えて帰伯を決意

ニッケイ新聞 2012年6月20日付け

 日本で中学、高校と学歴を重ねたデカセギ子弟は、一般にそのまま就職して社会人生活をはじめる。逆にブラジルで大学に入ればそのまま当地で就職、結婚となる可能性が高い。
 つまり学齢期をどちらの国で過ごすかは、子供の一生を左右する重大な問題だ。そのことを意識する親ほど、どちらの教育を選ぶかで悩む。
 デカセギ子弟が日本で大学に進学する割合は非常に低く、学費も問題だ。高学歴を意識する親ほど帰伯を重視するのかもしれない。
 前回はデカセギ本人が60歳を過ぎて帰伯に踏み切った例だったが、今回は日本育ちの子供の大学進学を考え帰伯した例を紹介する。
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 サンパウロ州ピラール・ド・スール在住の奥田マルシオさん(49、三世)一家が訪日したのは2000年。以来、富山県に11年間住んだ。09年2月に経済危機の影響で失業したが、マルシオさんはその4カ月後に再就職を決めた。一時期はコミュニティ向けの無料日本語教室、パソコン教室も経営していたほどで、日本での生活に完全に適応していた。
 「日本人のように暮せたのは大きな経験でしたね」と笑顔を見せる。コミュニティ内だけで暮らし日本語を覚えようとしない人を、「どうしてそうなのか理解できなかった」。妻の瞳さん(43、同)も「富山は良いところでした」と目を細めて懐かしんだ。
 日本で夫妻は分譲住宅を購入し、15年ローンを組んでいた。そのまま日本に住んでいた可能性もあった。
 しかし、マルシオさんの母が亡くなり、高齢の父、病気で働けない弟の世話をする必要に迫られた。これが直接のきっかけだったが、夫妻にとって以前から子供の教育も重要な問題だった。
 当時、長女のデボラさん(16、四世)は県立高校国際コースの一年生、シンジくん(13、同)は中学一年生だった。デボラさんは勉強熱心で、帰伯時には教師から「もったいない」と惜しまれたほどだった。二人は獅子舞を習い、デボラさんは笛や太鼓、シンジくんは踊り子として帰伯するまで練習した。
 マルシオさんは「子供を日本の大学に進学させるには学費が問題だった」と振り返る。子供の教育を考えたとき、当地の方が将来性があると最終的に判断したようだ。
 結局、住宅ローンは3年ほど支払っただけで売却し、10年7月に一家は帰伯した。マルシオさんはサンミゲル・アルカンジョやサンパウロ市で友人と共同経営のパソコン教室を開いたが強盗に遭い、閉鎖に追い込まれた。帰伯はしたものの、当地の厳しい現実の「洗礼」を受けてしまった。
 ソロカーバやサンパウロ市などで再就職を希望するマルシオさんに、電気技師の仕事はと問うと「今からでは難しいと思う」と静かに言った。ブラジル経済が進展した分、デカセギ本人は時代から取り残される。日本語の読み書きはあまり得意ではないが、日常会話に差し支えはない。その能力を活かせる仕事を見つけるのが、日本での経験をプラスにかえる唯一の方法だ。
 子供二人は地元の公立学校に通う。ポ語は2年ほど公文で勉強し、簡単な会話なら理解できる。日本語で育った二人だけに当地の学校に入った当初は戸惑いを感じた。でも、日本語学校が心のよりどころとなった。ただし、そこが一般社会に適応するまでの一時的な場所なのか、日系社会に入るきっかけとなるのかは未知数だ。
 マルシオさんは「ブラジルはこれから発展していく国だからね」と自分に言い聞かせるように繰り返しつつも、「日本はとてもよかった。何より安全で仕事も良かった。礼儀や整理整頓など、日本の文化や習慣は素晴らしいもの。だからできれば残りたかった」と、本音とも聞こえる未練をのぞかせる。
 心では決断した積もりでも、どこかにまだ迷いがあるのかもしれない。(つづく、田中詩穂記者)

写真=奥田さん一家。ピラール・ド・スール文協会館で(1月21日取材、撮影)