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日本に戻るか定住か=デカセギ大量帰伯世代=(6、番外編)=「日語でブラジル変えたい」=在日経験きっかけで教師に

ニッケイ新聞 2012年6月21日付け

 日本で過ごした経験を当地での就職と、人生のやりがいにつなげた幸運な例がある。「教師は世界で一番良い職業だと思う」。サンパウロ市の大志万学院の教師、滝内バルチーラさん(26、四世)は流ちょうな日本語でそう断言する。
 サンパウロ州ガルサ出身で非日系の父、日系三世の母を持つバルチーラさんは、8歳だった93年、両親とともに訪日した。広島県福山市の小学校に5年間通い、人格形成上、最も重要な学齢期を日本で過ごした。
 当時ブラジル人学校はなく、公立小学校に行くしかなかった。ブラジル人はクラスでたった一人だったが、それを「日本語を話さざるを得ない環境」というチャンスに変える意思力をもっており、わずか数カ月でかなり話し始めた。だが、家庭内で両親はポ語を徹底し、ブラジルの習慣を通したおかげで、結果的に素晴らしいバイリンガル環境が生まれた。
 「だから、こっちに帰っても恥ずかしくなかった」。母からはいつも「あなたはブラジル人。何を言われてもその誇りは忘れてはいけない」と教えられた。「アイデンティティが何よりも大切。それがはっきりしないと子供は苦しむ」と断言する。
 彼女の目には、両親の日本での生活は「辛く孤独だった」ように映った。デカセギとして仕事するのはまるで「戦争」であり、残業時間の奪い合いだった。「両親には友達もいたけど、自分たちの居場所ではないと思っていたみたい」と子供なりに親の気持ちを敏感に感じ取っていた。
 帰伯してからは地元の高校に通い、教師への道を一歩踏み出した。授業料を稼ぐため、ガルサの文協会館で日本語を教え始めた。最初は完全に自己流だったが、徐々に生徒が増えていった。
 教師を志したのはこの頃、17歳のときだ。「ブラジルには貧困、暴力などいろいろな問題がある。これらを解決するのは教育。この国を何とかしたい」と強く思うようになった。
 カンピーナス州立大学文学部に進学し、ポ語教育を専攻した。学位取得のために外国語を学ぶ必要があり、日本語を選ぼうとしたが、外国語センターの教師に逆に教師になるよう勧められた。教授法を学び、希望者に教えることで経験を積んでいった。卒業後はサンパウロ市へ移り、CIATEの日本語教室で講師を務めるうちに大志万学院を知った。教育方針に感銘を受け、教師に採用された。
 彼女は同校の方針である「日本語は世界を平和にできる」との考えに強く共鳴している。「きちんと挨拶すること、字を丁寧に書くこと、思いやりや礼儀が、大志万の子供たちは自然に身についている」といい、「言葉や文化を教えることで人を変えることができる。そこからブラジルを変えられる」と強い意志をのぞかせる。
 流暢な日本語で話すバルチーラさんだが、今も教材で勉強するほど熱心だ。「お金は盗めても知識は盗めないという言葉がある。教育は全てなんです」とまなざしは真剣そのものだ。26歳にして天職と呼べる職業に出会ったことは、紛れもない幸運だ。そこから日本にデカセギに戻るという選択肢は生まれようがない。
 日本語教育を通してブラジルを変える——という方法は、日系人が日本での経験を最大限に活かしていく〃魔法〃かもしれない。同じような志を持つ教師が10人、20人と増えていき、ブラジル人を相手に教えていけば、一世代、二世代後にはきっと、この国に大きな変化を呼び起こすに違いない。(つづく、田中詩穂記者)

写真=滝内バルチーラさん(2月2日撮影)