ニッケイ新聞 2012年6月22日付け
与儀花城トシアキ・イウトンさん(48、三世)=サンパウロ市在住=は、東日本大震災を体験して生き残り、その経験を帰伯後に活かそうとしている数少ない日系人だ(4月11日付本紙7面掲載)。デカセギとして訪日し、原発で有名な宮城県女川市に住んでいた。
訪日のきっかけは、18年間も同町に住んでいた従姉妹一家が休暇を取って里帰りしたさい、「ブラジルと日本は全然違う。政府も何もかもきちんと機能している」と聞き、興味を抱いたことだった。
「人生を変えたかったのと、日本を知りたかった」。08年11月にそれまでの仕事に一区切りをつけ、離婚もした。訪日は一大決心だった。この時期、すでに金融危機が始まり、帰伯の流れが強まっていた。イウトンさんはそれに逆らうように訪日した珍しい例だ。
女川では水産会社で鮭、サンマの選別、冷凍、箱詰めをして出荷する仕事をしていた。年配の地元女性を中心にした従業員は約120人、うち中国人が3割の職場だった。「おそらく私たちが町で唯一のブラジル人だった」と笑い、「同僚とはいつも良い関係で良い思い出しかない」と顔をほころばせる。
訪日後2年半が経った11年3月11日、大震災が襲った。わけもわからぬまま避難所で9日間過ごし、在京ブラジル大使館が被災ブラジル人用に回した特別バスに乗り込み、そのまま3月25日には日本を出発した。全く予期せぬ帰伯だった。イウトンさんは、元の職場に復帰するとともにサンパウロ市役所の文化局に職を得た。
大自然の脅威で意図せず突然終止符が打たれた日本での生活だったが、イウトンさんは「特筆すべきものだった」と好意的に振り返る。
震災の前、近隣の県に寺巡りや演劇鑑賞に出かけ、夏は花火大会や、職場の忘年会にも顔を出した。「日本で休日に遊園地やショッピングセンターばかり行くブラジル人がいるが、こっちにも似たような施設は多い。せっかく日本にいるのに、その国の文化を知らずに過ごすのは残念」と嘆く。
当地で仕事探しをしても気に入る条件の職に出会わず、再び訪日へ目を向ける〃根無し草〃的な生き方の日系人がかなりいるといわれる。
その傾向に対し、イウトンさんは「そういう人はだいたい帰伯後の求職活動の面接で、日本で何をしていたのか答えられない」と指摘する。「朝の体操や掃除など、仕事以外のシンプルなことがどれだけ素晴らしいことか気づいていない」とし、「常に規律があって生産性も高い職場で仕事をし、自分達もそれを身に着けたはずなのに、その重要性をブラジルできちんと説明できない。本当はこっちの企業でこそ、それが必要とされているのに、あまりにもったいない」と力説する。
女川の水産会社でイウトンさんは「機械はどの国のメーカーなのか」「毎日運ばれてくる魚はどこから輸入していたのか」「競合他社はどのような状況か」など、仕事の全体像や業界について自分なりに調べて理解に努めた。「たとえ一介の作業員でも役割があり、そう発想するのが日本では普通だった。仕事の中味に興味を持って学び、理解する必要がある」。
デカセギがお金だけではなく日本式の生産性や規律を持ち帰り、それをブラジル社会に還元できるのなら、当地の生産現場は大きく変わる可能性がある。わずか3年間で10万人が帰伯しており、その多くは当地でも工場で働く。
そんな作業員を中心に雇う発想の工場があってもいい。企業側としても「大量帰伯世代」ならではの人材活用策を練っても良い時期なのかもしれない。(つづく、田中詩穂記者)
写真=女川での滞在を、「特筆すべき経験」と好意的に振り返ったイウトンさん(3月30日撮影)