ブラジル日本移民104周年
ニッケイ新聞 2012年6月23日付け
未知の新大陸への大きな期待を抱いて体験した移民船生活は、神戸や横浜港までは普通の日本人だった者が、ブラジル移民になるための一種の〃通過儀礼〃だった。1カ月から2カ月間に渡る船上生活は、移住の最初の思い出として深く記憶に残る。それゆえ、今でもあちこちで盛んに同船者会や同航会が行われる。「同じ船のメシを食った」仲間ゆえの行事であり、一生のつながりとなるようだ。そんな船中で起きた悲喜こもごもの〃事件〃を語ってもらった。
アマゾン河の水飲める?
大原愛子さん(85、福島)モジ在住。ぶらじる丸、1956年1月ベレン着
赤道祭で女王様に選ばれ、衣装を着て大勢の前を歩いたのが印象的だと話す大原さん。「綺麗な冠と西洋風のドレスを着せてもらいました。少し恥ずかしかったけど、誇らしい気分だったのを覚えています。夫は凄く照れていましたね」と当時を懐かしげに振り返る。
しかし、「食事もちゃんとした日本食が出たし、同じ境遇の仲間がたくさんいたので、船の中はとても楽しかったです、ちょっとした旅行気分だった」という。渡伯までの充実した時間とは対照的に、着港したベレンから入植地であったサンタレンまでの河船での移動は多難なものとなった。
寝床は慣れないハンモック。スコールが降る度に船の両脇の幕が下ろされるため、船内は蒸し風呂のような状態になる。水が欲しいと言うと「アマゾン河の水を飲め」と言われて、驚いたという。見るからに濁った川水だ。
そんな環境の河船の旅でも、一度も体調を崩さなかった大原さん。「そういう丈夫な体だったから、今もこうして元気でいられるのだと思う」と話すその笑顔はどこか誇らしげだった。
5年のつもりが50年
佐藤花美さん(79、福島)モジ在住。さんとす丸、1959年10月サントス着
2、4、6歳の幼い子どもを連れて移民船に乗り込んだ佐藤さんは、彼らの面倒を見るのに四苦八苦だった。「3人ともとてもやんちゃで、なかなかじっとして居られない子たちでしたね。若い渡航者に捕まって海に放り込む真似をされた時には、冗談と分かっていてもヒヤヒヤしました」と当時を振り返る。
乗船前は「船内でどんな生活が待ち受けているか不安でいっぱいだった」と心配したものの、船酔いもなく、賑やかな行事もあった1か月半の航海は、今でも良い思い出になっているという。
最大のイベントだった赤道祭で印象に残っている出来事を尋ねると、「主人がヤシの葉の腰みのをつけて、全身を黒く塗った格好でサンバのダンスを踊っていたことを良く覚えています。本当に恥ずかしかったけど、凄く盛り上がって楽しかったですね」と懐かしげに語った。
「5年契約で渡伯したはずなのに、気づけばもう50年以上。今ではブラジルに来て本当に良かったと思っています」と満面の笑みを浮かべた。
船内体験をNHKラジオで
菅野澄江さん(68、福島)モジ在住。ぶらじる丸、1958年10月サントス着
15歳だった菅野さんは「楽しくて、嬉しくて希望に溢れていた」と「ぶらじる丸」に乗った1958年を振り返る。
幼少の頃から「外国に行きたい」という思いは強く、渡伯が決まった時は不安や心配よりも嬉しさが先に立っていた。移民船内で開かれていた、子弟のための「船内学校」が強く印象に残っているという。
そこで出会った東京出身の子から、「東北出身のくせにどうして勉強ができるんだ」などと言われ、腹を立てていた。「絶対馬鹿にされたくなくて、頑張って勉強したのを覚えています」。
菅野さんの得意科目は国語で、特に作文は日本にいた時から数多くの賞を獲得し、船内で書いたものはブラジルでの恩師の手を伝って日本に送られて、NHKのラジオでも放送されたとか。
現在はモジに住みながら近所の子供に太鼓を教える穏やかな日々を過ごしている。「50年前からは想像も出来ませんね」と話す様子から、現在の充実ぶりが伺えた。
各寄港地で晩餐楽しんだ
永田美知子さん(80、栃木)グアルーリョス在住。チチャレンガ号、1956年7月サントス着
先にブラジルに渡っていた婚約者を追って、呼び寄せ移民として渡伯した永田さんは当時24歳。移民船の中では、船内学校の先生として活躍した。
国語や算数などの科目のほかにも、赤道祭で発表するダンスの指導も行ったのが印象的だという。「みんなやんちゃだったけど、本当に可愛かった」という当時の生徒とは、移住50周年を記念した同船者会で再会し、懐かしい思い出を語り合った。
同行した義妹が味の素社の社員だったため、寄港した各都市で現地支社の社員から歓待を受けたことも良い思い出の一つだ。香港では旅の安全を祈願して船上レストランに招かれ、ディナーをごちそうになった。「色々な街で、普通は行けないような場所に連れて行ってもらった」とか。
「日本は戦後凄く成長して先進国になったけど、今はちょっと下降気味。ブラジルについた始めの頃は本当に苦労したが、今となっては渡伯して良かったと思う」と晴れ晴れとした顔で話した。