ブラジル日本移民104周年
ニッケイ新聞 2012年6月23日付け
南アで黒人みてビックリ!
玉井須美子さん(86、愛知)タヴォン・ダ・セーラ在住。あらびあ丸、1933年4月サントス着
8歳で両親と共に「あらびあ丸」に乗り込んだ1933年、玉井さんはいつも同年代の友人と船内を走り回る元気いっぱいの少女だった。時には男の子と喧嘩をしたこともあった。
そんなお転婆で怖いもの知らずだった玉井さんだが、船がケープタウン港の近くに錨泊した際、小船でバナナやパイナップルを売りに来た黒人を初めて見た時は、その風貌にひどく驚かされたという。
「真っ黒な顔に、ギョロっとした目。喋る度に白と赤が不気味なくらい鮮やかな口の中が見え隠れして、少し怖いくらいでした」と当時を振り返る。それでも、紐をつけたざるにお金を入れて、商品と交換する作業は面白く、両親にねだって何度も繰り返し行った。
ブラジルに来て80年近くが経つ今、故郷である日本について尋ねると「私にとってはもう外国。親しみはあまりないかな。それに(当時住んでいた)名古屋にずっといたらきっと空襲にやられてしまっていたと思う。そう思えば、ブラジルに来ることが出来たのはラッキーですね」と冗談めかして笑った。
水葬「こんなあっさり?」
纐纈蹟二さん(91、岐阜)、サウーデ在住。りおでじゃねいろ丸、1938年8月サントス着
あこがれ続けた外国へ、無料で行けるどころか補助金まで出る。「それなら行くしかない」と思って1938年、神戸発の「りおでじゃねいろ丸」に当時18歳で乗り込んだ。その船旅の中で生まれて初めて「水葬」に立ち会った。
日差しの強い暑い日だった。日射病であえなく命を落とした男性の遺体は、簡単な葬儀を済ませたその日の夜に、袋に詰められ海に沈められた。「こんなあっさりと済ませてしまうんだ、面倒くさいことはないのだなと、逆に感心してしまいました」と当時の様子を振り返る。
もう一つあった印象的な出来事は、船内に密航者が潜伏していたこと。年は一つ上の19歳で話したこともあった。「定期健診からいつも逃げていたので怪しいと思っていたら、ブラジル到着直前に発覚して船から降ろされていました。どうやら強制送還されたようです」と語る。今ではどちらも良い思い出話となっているのだとか。
感動のアマゾンおにぎり
荻窪知世さん(78、東京)サンパウロ市プラッサ・ダ・アルボレ在住。あめりか丸、1955年3月ベレン着
荻窪さんの渡伯時の思い出は、神戸からベレンに渡った「あめりか丸」船内のものよりも、ベレンから最初の入植地だったベルテーラに移動する河舟でのものの方がより印象深い。
一週間をかけての移動は過酷なものだった。食べ物や水の支給はなく、頼みの綱はベレンで買った青く、まだ熟れていないバナナのみ。「固いバナナを柔らかく、食べやすくするために手で揉むんですね。甘くなったかなと思って食べるとやっぱり渋い。とても食べられたものではなかったですが、それでも食べるほかありませんでした」と苦しかった当時を振り返る。
「本当に辛い一週間でしたが、ベルテーラに到着した時には涙が出ました。先に入植していた日本人の方々が、おにぎりを用意して待っていてくれたのです。パラパラの黄色いお米で、ただ塩が振ってあるだけの簡単なおにぎりでしたが、今まで生きてきた中で、あの味を越えるものに出会った記憶はありません」。そう話す荻窪さんの瞳は、わずかにうるんでいた。
強烈な船酔い「もう乗らない」
武田倶仁子さん(78、鳥取)ピニェイロス在住。ぶらじる丸、1958年2月サントス着
農業移民として1958年に渡伯した武田さんにとっての最大の敵は、船の揺れから来る強烈な船酔いだった。大きな船舶に乗ったのが初めてだったこともあり、その辛さは「もう船には絶対乗りたくない」と思わずには居られないほどのものだった。
そんな船旅の中で印象に残っている出来事は、パナマ運河の大西洋側の港クリストバルに寄港した時のこと。船から見える森林の緑が日本では見ることが出来ないような鮮やかさで、強烈に目に焼きついて残っているという。
黒人を初めてみた時ですらあまり新鮮味を感じなかった武田さんだが、その緑色を見て「外国に来たのだなと実感した」と感慨深げ。
逆にブラジルへの玄関口となったサントス港については、「もうちょっと自然が豊かで綺麗なところだと思った」と少しがっかりだったとか。
4、5年の滞在予定で来伯した武田さんだが「日本が恋しくなった時期もあったけど、今はもうここが私の故郷」と後悔を微塵も感じさせない表情で語った。
一航海で3人の死者
高坂光丸さん(85、青森)リベルダーデ在住。りおでじゃねいろ丸、1932年6月サントス着
高坂さんが乗った「りおでじゃねいろ丸」は、およそ1カ月半の航海で3人の死者が出た。いずれも幼い子どもだったそうだ。驚くべきはその弔い方だったという。船長からの弔辞があった後、日の丸が描かれた布にくるんで大海原へ沈めるだけ。いわゆる水葬だ。
当時6歳だった高坂さんは、「周りの大人はみんな暗い顔で、甲板が静まり返っていたのを覚えています。当時まだ幼かったのでうまく状況を把握できませんでしたが、今思えば自分の子どもを海に沈めざるを得なかった親の心境は、本当に辛かったでしょうね」と感慨深げに振り返った。