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山本喜誉司と護憲革命=家族が語るコロニア秘史=(2)=銃雨の中で日伯旗立てる

ニッケイ新聞 2012年7月5日付け

 東山農場を挟んで両軍が対峙したその時——。
【9月27日=本部に據(よ)れる(サンパウロ州軍)一隊午後9時退却、本部の前方1キロメートルにある牧草地Anhumas No.1高地に據(よ)る。ここに本部は全く両軍の間に介在す。本部広場にはブラジル並びに日本国旗を掲げ中立を表示す。(中略)連邦軍はPonte Alta牧場境に據(よ)り、午後両陣地の間に戦闘開始、本部上空は銃弾の雨となり、折々本部建物に命中す】
 坦は「最も背の高いユーカリを切り倒して本部の横に立て、頂上に日伯の国旗を並べて掲揚しました」という。戦後、混乱したコロニアを統合した手腕の片鱗が伺える、山本らしい発想だ。
【9月30日(晴れ)=本朝両軍24時間停戦命令により、両軍指揮官が牧草地Anhumasにて全員記念撮影を行なう。リオ軍幹部の来場を受く。1時半、講和不調のため、3時より再度戦闘開始すべしとのリオ軍司令官の注意により、場員一堂は小作人部落空家に避難せる】 
【10月1日(晴れ)=リオ軍主部隊は農場境界に前進、騎兵の一部が機械置き場に止宿中】
 まさに東山周辺で、革命終結に向けた講話交渉が行われ、いったんは両軍司令官が記念撮影までした。坦が父から聞いたこの時の逸話がある。農場に行進してきた連邦軍騎兵隊のコロネルが、本部広場の日伯旗をみて気に入り、「なぜ国旗を掲げているのか」と問うた。
 山本は「この農場は日伯友好を体現する特別な場所だという意味を国旗に込めたのです」と説明すると、コロネルはたいそう気に入り、その場で部下の兵士に「この農場では乱暴狼藉、略奪のたぐいは絶対に許さん」と命じた。こうして護憲革命は翌2日に鎮圧された。
 連邦軍は戦死者1050人、負傷者3800人を数えた。サンパウロ州軍は634人が霊廟に祭られているが、膨大な負傷者の詳細は分からない。いずれにしても、ブラジル史上最大の市民戦となった。
 農場内の珈琲園を望む高台に立つ見晴らし台「一心亭」の欄間には、今もこの時に貫通した弾痕が残っている。
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 護憲革命から遡ること8年、1926年10月、山本は農場購入のために「もんでびでお丸」で単身来伯し、翌年には家族を呼び寄せた。経営母体は岩崎家による東山農事株式会社(本社=東京)だ。戦前はブラジル拓殖会社、海外興業株式会社とともに並び称される存在だった。
 渡伯以前の山本喜誉司のことはあまり知られていない。彼には4人の子供がいるが、長女・瑶子のみ日本生まれで、次の息子2人(幹、坦)は北京生まれ、最後の三男・準が当地生まれという国際的な家族だ。
 山本は東大農学部を卒業後、三菱に入社し、小岩井農場で牧畜を学び、東山農事社が中国などで展開していた農場を経営するために、家族を北京において赴任した。北米から棉実を輸入して主に綿花栽培に従事し、計7年間も住んだ。
 山本が北支駐在を始めた19年以降、中国では蒋介石を指導者として軍事的な革命路線が推し進められ、それに対抗するように28年には張作霖爆殺事件、31年には満州事変と日本軍部による大陸進出気運が高まる時期に入っていった。
 岩崎久彌社長(創業者・岩崎弥太郎の長男)は、山本喜誉司に全幅の信頼を置いていたようだ。坦は「岩崎久彌は笠戸丸以来の日本移民のことをとても気にしていて、ブラジルの農業はサトウキビとコーヒーだけで、いずれ国際相場の暴落で痛い目を見る。だから父にお金儲けのためではない、作物の種類を増やすような実験農場をつくって農業技術を広めてくれ」と依頼したと聞いている。
 日本軍部の大陸進出に逆らうように、20年代のブラジルには、武力によらない平和的移住の流れが向かっていた。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)

写真=東山農場に作られたテニス場で撮影。1935年ごろ。山本喜誉司(中央後ろ)と3人の息子たち(前列中央が坦)=山本家所蔵