ニッケイ新聞 2012年7月6日付け
1930年3月、長女・謡子が腸チブスで亡くなったことが、山本に永住を決意させる一因となった。「父は最初、農場経営のために一時滞在のつもりで来た」と坦はいう。山本はブラジル人のポ語教師をつけてすぐにペラペラになり、全伯有数の専門機関だったカンピーナス農事研究所の学者や幹部と親交を深め、ブラジルが気に入った。
坦はこの頃、父からこう言われた。「農業の基本は土作り。テーラ(大地)のことを考える人は時間のことを気にしてはいけない。だから、お前達は永住してブラジル人のように生きなさい。ジャポネースではなくニッポ・ブラジレイロだ。だからキリスト教会やブラジル学校へ通いなさい」。さらに「カルロスは僕の洗礼名、実は父にも洗礼名があり、アウグストといいます」と明かす。
開戦翌年の42年2月21日、枢軸国側資産の凍結令が下された。「大戦が始まった時、僕はサンパウロ連邦大学の医学部で学んでいたが、資産凍結されて宝石や家財を売って生活費にした。父に『貧乏になったから自分が使うお金は働いて稼いでくれ』と言われ、大学を辞めた」。
大戦が終結し、46年1月にヅットラ陸軍元帥が大統領に就任した。この時、新大統領の顔写真を掲載した伯字紙を見た山本喜誉司は、「坦ちゃん、おいで。この写真を見てごらん。護憲革命のときに最初に進軍して来た騎兵隊のコロネルじゃないか」と言った。
文献を調べると、ヅットラは確かに32年に連邦軍の南ミナス州騎馬連隊で司令官を任じていた。階級もコロネル(大佐)だ。東山農場を通過したかどうかの確証はないが、十分ありうる。
坦は終戦直後の東山について「競売に出されそうになり、オランダ人が買ってオランブラになるところだった」と証言した。調べてみると、確かにその頃オランダ移住機関はカンピーナス付近で土地を探していた。「オランブラⅠ」移住地は48年7月にカンピーナス近郊に創立している。
オランブラ公式サイト(www.holambra.tur.br)に興味深い実話が掲載されている。47年末、サンパウロ州植民局長はオランダ移民植民責任者に、東山農場を使って乳牛飼育をして牛乳をサンパウロ市に供給したらとの計画を提案した。「36ヘクタール毎に酪農家を配置し、各30頭を飼育する」というもので、州と連邦から拓殖融資付きの特別待遇も約束されていた。「ところが東山農場の計画は前に進まず、他を買うことになった」とある。
「東山農場の競売書類は実際に作成され、大統領執務室には同様の書類とともに山積みされていた。しかし、なぜか大統領は東山農場のそれにサインをしなかった」と坦はいう。「確証はありません。でも父は言いました。もしかしたらヅットラ大統領があの時のコロネルで、東山農場のことを覚えていたからサインをしなかったのではないかと」と明かす。
46年から50年まで連邦下院副議長を務めたマウリシオ・グラッコ・カルドーゾ、連邦下議ルイス・デ・トレド・ピーザ・ソブリンニョ(元農務長官、コーヒー院総裁)などの大物政治家に助力してもらい、山本が先頭に立って資産凍結令解除の働きかけをした。「あの頃、父は家族にこう言いました。『申し訳ないがうちに入れるお金は1トストンもない。あるお金は全て資金凍結解除に使う』」。
護憲革命の時に「命に代えても死守する」と農場の居残った気概そのままに解除運動に取り組む。その結果、51年2月、凍結解除の第1号として東山銀行、引続きカーザ東山、東山酒造、東山農場などの所有権が復帰した。ちなみにヅットラ大統領の任期も同年までだ。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)