ニッケイ新聞 2012年7月13日付け
2005年、3回目大会で浜崎マルセリーノさん(49、二世)が会長に就任した。兄が着物販売店「ミニ着物」を経営していたため、衣装協力にと呼びかけられたのがきっかけ。妻のみゆきさんと運営する平成学院は、初回大会からの参加チームでもある。
浜崎会長は「親が祭りキチガイで、小さい頃から仕事もせず祭りにかまける親父を見て育った」と笑う。自身も東洋祭りや七夕祭りの運営に携わる祭り好きだ。
「太鼓で盛り上がった日系社会に、YOSAKOIはもう一つ活気をプラスした。踊る若者だけじゃなく、見ている家族も楽しめる」。日系社会に活気を与えたいとの思いは飯島氏と変わらない。
「これだけYOSAKOIをしている人がいてびっくりした」と言う第3回大会の参加団体は18、人数にして約千人が集まった。伯社会に向けた発信に好適だったイビラプエラ公園体育館は同年、館内設備の消防法違反により一時閉鎖され、急遽ショーハウス「ヴィア・フンシャル」での開催となった。
これまでの目玉だった屋外ショーは断念せざるを得なくなったものの、見積もりが良く音響や照明も整っているというメリットがあり、以後同会場での開催が続いている。池崎商会など、大手のスポンサーの協力も得ることもできた。入場料代わりに寄付を募っている保存食がバランスよく集められるよう、招待状には食料の種類を明記した。
この頃から徐々に非日系人の参加が増え、踊りにブラジル的な要素が目立つようにもなった。大会がコンクール形式となったことで、他チームと差をつけようとそれぞれが独自性を追求し始めたためでもあるようだ。非日系が大半を占めるPLは、鳴子の他にもパンデイロやタンボーレスなど当地の楽器を取り入れ、松柏・大志万学園はサンバやカポエイラをミックスした。
これまでに6度の総合優勝をさらった最強チーム、ロンドリーナ市のグルッポ・サンセイが初出陣したのもこの年だ。和太鼓を用いながらブラジル北東部のリズム、バイアォンを融合させた華やかな舞台で観客を魅了し、初出場にして総合優勝を果たした。飯島氏は「太鼓も踊りもこれがブラジルYOSAKOIの原点と思うほど、全てオリジナルでの挑戦でビックリした。総合でダントツだった」と当時の驚きはまだ新鮮だ。
同グループには奨励金のほか、3回目から審査員を務める芸術家豊田豊さんが制作した優勝カップが贈られた。以来、豊田さんは1年かけて制作するという優勝カップを、毎年無償で提供している。(つづく、児島阿佐美)
写真=浜崎マルセリーノ会長/ヴィア・フンシャル会場