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パラグァイ=なぜチャベス嫌いなのか=2国にひそむ歴史的因縁=坂本邦雄

ニッケイ新聞 2012年8月21日付け

 パラグァイは決してベネズエラの国民が嫌いなのではなく、チャベスの如き大統領がのさばっている間は、ベネズエラのメルコスール加入は絶対御免だと考えている。それには歴史的な根強いものが裏にある。
 パラグァイはスペイン植民地時代の1544年代と1717ー35年代の二度にわたり「コムネロス反乱」と呼ばれる革命運動を起こした歴史がある。これはラテン・アメリカ開放の最たる英雄と言われる亜国のサンマルティンや、ベネズエラのボリバールによる1800年代のラ米諸国独立運動よりも遥かに昔の事に当たる。
 パラグァイが独立したのは1811年になってからだが、その後1814年から26年間にもわたり、ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア終身総統が絶対専制の独裁恐怖政治の許に、パラグァイ国家アイデンティティ形成と保存の為に極めて厳しい鎖国政策を徹底した。
 フランシアは政敵や不徳行為は容赦なく厳罰に処したが、その統治行政は至って清廉で、1840年に74歳で亡くなった時は自分は僅かな身回り品しかなかった程に質素な私生活で、一方国には大変豊かな財政を遺した。
 当時フランシア(暴君)の鎖国政治下のパラグァイは内外人の出入国の取り締まりも極めて厳しかった。そんな中、フランスの国際的植物学者Aime Jacques Alexandre Gaujaud Bonplandがパラグァイの植物群落研究の名目で入国を許された。
 しかし、同植物学者は本来の学術研究以外に余計な政治問題(どうも独裁鎖国政策の規制緩和)にも首を突っ込んだらしく、暴君の逆鱗に触れ軟禁拘束され、いつ出国が許されるかも分からない破目になった。近隣諸国のとりなしで同学者の赦免を、手を替え品を替え求められたが、暴君は頑として聞き容れない。
 そこで乗り出したのがベネズエラの自他共に許すシモン・ボリバール南米解放の英雄であった。ボリバールは再三の折衝にも応じない暴君フランシアに、最後に親書を送り件の植物学者の釈放を求め、さもなくばパラグイァイに解放軍を遠征させると脅かした。
 しかし、フランシアはこのボリバール親書を最後まで黙殺し握り潰してしまった。ボリバールの差し回しだったとも見られる問題のフランス人学者が釈放されたのはそのずっと後になるが、この様に昔からパラグァイはそう易々と外圧に屈しない一つの例として知られる。
 フランシア死後1841年に後任に指名されたカルロス・アントニオ・ロペスは、1844年の憲法制定と共にパラグァイ初代立憲大統領に選出され、フランシア独裁政権より受け継いだ豊かな財政を以って善政を布き、門戸を開き南米で当時最も富強と言われたパラグァイ国を育てた。
 そして国会の決議によって、ロペス初代大統領の死後、その嫡子フランシスコ・ソラノ・ロペス将軍(後元帥)が第2代大統領に就任した(1862年)。
 この第2代ロペス大統領の念願は、フランシア独裁鎖国政権及び第1代立憲共和政権に惰性的に引き継がれた鎖国政策の画期的改革開放を図り、ヨーロッパ諸国との貿易の振興を目指す事にあった。
 そして父君の遺言に従い、近隣諸国との紛糾を避けるには、最後まで外交折衝を続けるべく努力したが、不幸にしてパラグァイを、手遅れにならない内に叩き潰さんとしたブラジル、アルゼンチン、ウルグァイの秘密同盟によった彼の呪わしい〃三国戦争〃の犠牲になったのである。
 ここでベネズエラの話に戻ると、ボリバール時代の協和思想に基づいた開放干渉と、パ国フランシアの保守思想はその昔既に自ずと相容れないものがあったのである。そこへボリバール協和思想を左傾化したチャベスの〃21世紀新自由主義〃制覇の話をゴリ押しに持ち込まれても、パラグァイ人は〃化学的〃にどうも馴染めないのである。
 これを打破する為に〃坊主崩れ〃の元司教ルーゴ大統領が登場したのであるが、その極左イデオロギーがバレて国会の弾劾裁判の決議で追放されて仕舞った。一般の市民は〃それ見た事か〃と手を叩くが、複雑な国際政治情勢の中で如何なるか中々予断は許せない。