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ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街=O Bazar das Bonecas=中田みちよ=第2回

ニッケイ新聞 2012年8月30日付け

 コンデ街は移民に関する書物では必ず登場するのですが、その暮らしざまをブラジル側ではギリェルメ・デ・アルメイダ(Guilherme de Almeida、1890〜1969)が描写していました。
 ギリェルメは弁護士でジャーナリスト、そして日系社会では「ハイカイ」をブラジルに導入したひととして知られていますが、1954年のサンパウロ創立400年祭の実行委員長を務めたのが縁で、日伯文化連盟の初代会長にもなったひとです。
 そのギリェルメには1929年に『エスタード』紙の日曜版に8回にわたって掲載した『コスモポリス』と冠されたコラムがあります。(1962年ナショナル出版社が一冊にまとめて発行)。まだ各国の移民たちが出自ごとにそれぞれの地区に肩を寄せ合って暮らしていた時代で、それをルポ・スタイルで紹介しているのですが、その中に、まさしく当時の日本人の象徴だったコンデ・デ・サルゼーダス街が登場しているのです。インテリ・ブラジル人の眼にはどんな風に映っていたのでしょうか。
 《・・子どものときに想像したこと。ここに深い穴を掘って、掘って、深く、ものすごい深い穴を掘って、地球をつきぬけて、その中にあたまから落ちてズーズーズ、ポーン。一丁上がり、と、うまい具合に向こう側の日本につく。落ちたときは頭が下なのに、着いたときは頭が上で、そのままうまい具合に着地するんだ》
 『人形の街』と題するルポ記のこの書き出しに私は思わず笑ってしまいました。まだ日本に住んでいた子どものとき、やはり同じことを考えたことがあるんです。洋の東西を問わずに、人間て同じことを考えるんだ・・・とうれしかったですね。多少、成長してからは地球の中心はマグマが渦巻いて、ズーズーと落ちていったら一瞬で溶解だ・・・と、悪態をついた記憶もありますが。
 『人形の街』と訳をつけましたが原題は『人形のバザール(O Bazar das Bonecas)』です。しかし書きたいのは日本人(人形は小さい日本人のメタファー=隠喩)の街としてのコンデ街なので、人形の街に意訳しました。
 《・・一日の終わり。それは終わりにふさわしく、決定的な灰色。どうにもならない薄ねずみ色なのだが、大したいいこともなかったのに懐かしさを覚える、恒常的な「もうたくさん」という見えないカラスのくちばしから零れ落ちるしずくに似ている。
 ・・雨だけがもたらすことができる人生のこの厭世感、この空虚感・・・。
 しかし、興味深いのは、明るい井戸口の、そこから落下しながらまちがいなく日本を夢想することだった。夢は扇の形をしていた。あの、半透明な車のフラント・ガラスをきれいにする扇形の、振り子のように正確に、こちらからあちらへ、あちらからこちらに。ガラスをつたう光るしずくを皺のように孤をえがきながらはらいのけるワイパー。このガラスの扇が扇の中の日本の景色を彩る》
 ・・・見えない烏のくちばしから零れおちるしずく・・・。詩人だなあと思います。雨だけがもたらす厭世観、空虚感も、雨の日の夕暮れにおぼえる切ないような灰色の哀愁・・・これはまあ、思春期の感情だよね、と思いながら年譜をみると書いたのが21歳のころ。だからかなり青臭いですよね。もっとも、詩人というのは一生若者の心をもっているといわれますけどね。
 地球の核に向かって落ちながら、日本を夢想するって、日本が憧れだったんだ・・・。たぶん、大部分のブラジル人たちにとっては、現在でも日本は憧れかもしれない(日本の紀行文をフェルナンド・ベリッシモが著しているので後日紹介しよう)。出稼ぎという言葉が、かなり距離感を縮めはしたけれど。遠距離のため航空券が高いという現実が、まだ夢想を大きくさせていることもあるでしょうし。(つづく)

写真=改修された現在の〝コンデのお城〟