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ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街=O Bazar das Bonecas=中田みちよ=第3回

ニッケイ新聞 2012年8月31日付け

 《コンセリェイロ街を進むと、コンデ・デ・サルゼーダス街にでる。急勾配の道がまっすぐ伸びているその先には、ボア・モルテ街の古くて黒くて悲しい屋根がある。ボア・モルテ街の屋根・・・
 聖週間の死人のような静けさを保ち、そして、喪に服すその家族のように、故ファグンデスを包む紫の思い出の中に生きる(ボア・モルテ街の男たちはみんなファグンデスで、そろって故人だったような気がする)。
 雨と見間違うたそがれの中に立っていると、ここからサンパウロの日本が始まり、ここで日本が終わることが分かる。
・・・すべての日本が寄り集まっている。密集。コンデ・デ・サルゼーダス街の軒を並べる家々は、表情を持たない群集の顔だ》
 この当時サンパウロ市内に在住していた日本人は約2千人といわれます。そして一番密集していたのがコンデ街で300人ほど。長さ500メートルもないような坂に日本人が詰まるだけ詰まっていたというのは半田知雄(註=『移民の生活の歴史』著者)です。
 床板のないセメントだけの部屋で、石油の空き缶で煮炊きをしたものもかなりいたといわれていますから、ギリェルメが密集という言葉を使うのも無理なく、それほど人間も家々もぎゅうぎゅう詰めに暮らしていたのです。
 《尾形光琳が絹地にかいた鳥類、あるいは黒塗りの箱のふたの正座して琴や三味線を弾く金色の芸者。象牙の根付。あるいは吝嗇なコレクターたちが自慢たらしくしまいこむ紫水晶のペルージャー。三行詩のように小さく凝縮した思考が17文字にこめられるハイカイ。短く華奢で小さい。そこは小人の世界。黄色い人種。人形の街》
 うーん。詩人ですからね。言葉が短い。言葉と言葉をつむぐ行間こそ詩情だといえば聞こえはいいんですが、かなり訳しづらい。行間を読むのはある程度自由で、それだからこそ独善に陥る弊害もあるんです。オガタ・コウリンか・・・まもなくフジタの名前も出てくるんですが、これはやはり、知識階層に属したギリェルメということになるでしょう。人口の半分以上が飢餓にあえぐ国でも、浮世絵に興味をもち、ハイカイを嗜む人もいるわけだし・・・。フジタ・ツグハルを知ってもいたでしょうから。ちなみにおかっぱ頭はフジタのトレードマークですからね。
 フジタに関しては、1931年にブラジルにやってきたという記録があります(註=『リオデジャネイロ州移民百年史』の「リオ日本人美術史・牧田弘行」261頁)。レシーフェからサルバドールを経てリオに滞在。モンパルナスで仲間だったポルチナリ(註=1903年、サンパウロ州ブロドスキ生まれ。ブラジルの生んだ世界的画家)のアパートに半年ほど寄宿しました。パリでの生活に疲れて、ブラジルの大自然に癒しを求めた、といわれています。愛人を同行していますから、煩瑣な人間関係、パリ画壇での偏見とかもあったんだろうと、勝手に想像の羽を伸ばします。偏見というのは、言葉にするのはむずかしく、しぐさやトーンや状況から察知するもの。外国に暮らした人間なら誰もが思い当たるはずです。
 《別の子ども。別の女。別の男。また別の子ども。また別の女。また別の男も人形のようだ。
 全員同じである。いつもフジタのように前髪をたらし、いつも小さく華奢で、いつも長い雨、合羽・・・ 小さく、華奢で、ほそい》
 《・・・看板に描かれた人形。板切れ、また板切れ。青い大きなトタンはひらがながていねいに書かれた掛け物。白く縦書き。どの字も寺院にある柱廊に似ている。扇や灯篭や屏風は絵葉書や映画ですでに世界的に知られているものだ。
 その下にはポルトガル語の訳がつけられている(何のために? だれに説明するのに? 筆者・客は日本人だけなのに、という揶揄がある)
 小さな文字には、KKやYYやNNがおおい。「家庭的な下宿」「歯医者」「日本品」「床屋」。特に「家庭的な下宿屋」が多い》
 日本人移民の名前にはYYやKKが多く、むかし、アルファベットにYYやKKを有しなかったブラジル人は戸惑い、出生届けを受け付ける登記所の係員は聞き取った通りに書くので、とても日本人の氏名にはありえないような氏名が登場しました。つい先日読み返したばかりの『うつろ舟』(松井太郎著)にも、埋葬名簿にイヨスケ・イヤカバとされた氏名がヤマカワ・ヨウスケと解読される場面があり、その頃の日系社会の日常を上手に取り込む著者の腕に感心したばかりです。(つづく)

写真=現在のコンデの坂道、当時は日本人が下駄履き姿でポロンから出てきて闊歩していた