ニッケイ新聞 2012年9月5日付け
無論、錦衣帰国が第一義でしたが、そればかりでなく、ポルトガル語を覚えられなかった親たちのエゴが日本語学習を強制したのです。考えてみれば青森の片田舎で1910年に生まれた父などは、ローマ字も教わっていない時代でしたから、覚えられなかったのも無理もないんですが。
《夜の日本人の街。サルゼダス伯爵の古い館。赤レンガ、ステンド・グラスの窓やエリザベッチ朝のアーチ型のバルコニーから市内を展望する。塔が顔を覗かせる塀の角までのびる壁は、ボニタ街(筆者注・現トマース・デ・リーマ街。角にコンデの館があるが、ここまでは通常坂の上と呼ばれた)に寄りそい、言いようもなくボニタ(美しい)!》
《つまづきながら道を降りる。床屋がある。髪の豊かな西洋風のセルロイド人形がローション棚におさまって、セーターをきこんだ床屋を見ている。電球が三個。地下室から人間よりも絶望的なバイオリンの音色がする。夜の日本人の街。誰も、誰ひとりも、いない》
第2次大戦の始まりで、コンデ街は立ち退き令を受け、日本人街はまもなくガルボン・ブエノ街に移行し、コンデ街は寂れていきます。
ギリェルメがコンデ街を描写してからすでに80年が経ちました。そして、日本移民が百周年を祝ってまもなく5年になります。
何十年ぶりかでコンデ街を訪ねました。ここは私にも懐かしいところです。コンデの坂下にあるオスカル・シントラ街にはパウリスタ新聞社(現在は空き家で色あせた貸家の張り紙)があり、60年代の初頭、コチア産組の機関誌『農業と協同』の編集部にいた私は、校正のためにこの坂を上ったり降りたりしました。新聞の活版が写植になり、その後パウリスタ新聞社も解散。
坂の急勾配は今も変わりませんでしたが、かつて、日本人ばかりだった街(買い物籠を下げたエプロン姿のおばさんたち——日本人はなぜエプロン姿で外にでるのだろうと今でも不思議——を見かけ、街角では薄汚れた子どもたちがメンコで遊んだりしていたのに)には日本人の影もなく、頑丈な木の扉がつき、ポロンの窓が並んでいた家並みは、瀟洒な近代的な建物に変わっていました。
それよりも何よりもひところ、ピッツアの館だったサルゼダス伯爵の館は、サンパウロ州高等裁判所の判事官房室本部に衣替えしていました。ごちゃごちゃと長屋のような家がびっしり並んでいたコンセリェイロ街の角の一区画は新しい裁判所を建設中。右側はすでに完成されたモダンな玉虫青のガラス張り高層建築。これも裁判所に付属するものだそうです。
そして坂の中ほどには福音教会の「デウス・エ・アモール」。その周囲はすべて教会に関する祈祷書やCDや小冊子を商う店ばかり。それにイコン。そういえば60年からこっちすごい勢いで伸びてきたのが福音派教会です。ただオスカル・シントラ街から少し上ったジョアン・カルバョリョ横丁の角には「貸し室」の張り紙を出す古い二階家が当時を偲ばせる細長の木扉と木窓のまま取り残されてたっていました。
いみじくもこういったギリエルメの言葉がよみがえります。
《これらのルポは、たぶん当時(1920年末)を検証できる唯一のものかもしれないと思った。ユニークな独り言に似ている。われわれの歴史を刻んだサンパウロ。偉大で自由でユニークだった「古きよきサンパウロ」がまもなく消えていってしまう・・・》
ギリェルメと同じように坂を降り、また上りました。しかし、ここにいたあの日本人たちはどこへ行ってしまったのでしょうか。「移民の足跡」を刻んだはずのコンデ街には足跡などどこを探してもない、のです。破壊の連続のうえに描かれるものが歴史なのでしょうか。(第1冊目、終わり)
写真=かつてパウリスタ新聞が入っていたビルの現在の様子