ニッケイ新聞 2012年9月28日付け
この作品が書かれた当時(1988〜94年)は、日本経済は今の中国のように目覚しい好況期にあり、世界第2位の経済大国としてもてはやされて、国民の自意識もそれなりに高まっていた頃である。
南米大陸の後進国に甘んじていたブラジルの、奥地にやつてきた日本の若き撮影隊員を作中に登場させ、そういった傲慢性を湛えた血気溢れる日本人を演じさせた作者の心中に、ひそかに仕舞い込まれていた母国の人間への反発心が突如噴出した——と見てもあながち的外れではあるまい。
だが、作者の理性は、己の顔を鏡に写して見る事によって自らの容貌のマズさをさとり、それ以上の追求は差し控えてしまう。こうして作中に数々の見せ場を作りながら、作者はつねに理性と言うブレーキを用意し、作品の乱れや脱線をコントロールしてゆく。まさに筆の調教師と呼ぶべきものだ。
この場面を作り出した作者に、過去に似たような体験が合ったかどうかは言及しないとして、移民であれば多かれ少なかれ母国の人間との日常のレベルでの接触はあり、少なからず作者松井たろうが感じ取った感情の起伏は体験しているはずである。
この場面を、移民である我々「内」の者から見れば、「外」の人が感じ取った〃衝撃〃は「ない」と断言できそうである。なぜなら、主人公神西継志の思考、行動はそのまま我々「内」の者の思考、行動であると言えるからである。
継志に「あんな奴に……」といわしめたそれは、まさに我々「内」の者のそれなのである。隊員の背負い歩いている日本文化と、〃元日本人〃である移民とその子孫が築き上げてきた現地文化がここで接触し、かみ合わぬまま訣別したことによって提起された事柄は、学問的に眺めて多くの示唆を含んでおり、本著の編者を担当されたお二人の研究者を強く刺激したであろうことは容易に察しがつく。
この場面こそが本篇最大のピークとなり、象徴となり、そこから学問的興味が全篇に行き渡って、この作品の容易ならざる大きさ、深さにお二人を代表する「外」の人達が感動された、と見た「内」の者の目は、決して誤ってはいないと明言できるのである。
編者西氏はこう書いている。《松井太郎の文学はひとまず日本人読者が正面から受け止めるところから始めなければならない。そこにこめられた挑発とアイロニーは明らかに日本人に向けられている》と。この撮影隊の場面は「外」の人に痛烈なパンチを浴びせたようである。若しこの場面がなかったら、本篇も通り一ぺんの「辺境小説」として、それほどのインパクトを読者に与えることはなかったであろう。ほんの短い場面だが、いみじくも「外」の人を参らせてしまった力がここに凝縮されている。
『うつろ舟』は当初第1部4章のみで終結させている。ひとまずそれ以上書き継ぐつもりも無かった作品だから、第2部第3章の中で書かれたこの場面は、初めから年頭に置かれていなかったはずである。
読者から続編の要望を受けて『赤縄』を手がけてから、たぶん胸の奥に眠っていた〃ある一つの体験〃を、物語のどこかに織り込むことを作者は思いついたのだろう。そのエピソ—ドを嵌め込んだその瞬間に、この作品の価値が決定したと言っても大袈裟ではない。作者松井たろうは、それまで誰もが正面切って言わなかった、言うことを避けていた、わが民族が隠し持っていた〃心の汚点〃を、「外」の人であるわがはらからの前に突きつけたのである。
実を言うと、『うつろ舟』について私は過去に2回解説(評論)を試みている。その何れでも私はこの撮影隊の箇所は筆をハショって通リ過ごしている。なぜか、と今にして考えて見ると、主人公継志の言動が、移民である作者の言葉として私たち移民である読者に向けられたもの、との認識があったからである。
つまり、「コロニア社会内」での読者である我々は、「うん、松井さん、なかなかいいことを言ってくれるね」ぐらいの手の内が分かっている者同士の話として理解し、それ以外の何者でもなかったからである。
「外」の人の過剰反応は想定外だったのだ。ところがこのエピソ—ドは、日本の人には痛烈な石つぶてとなって彼らの胸の内深く投げ込まれたようである。編者お2人は、日本人への、日本の文学への挑戦といった少々オ—バーな言葉でその衝撃の大きさを表現されている。「内」と「外」の理解の相違であろう。
ともあれ、本篇は今、南米ブラジルを飛び立って日本語を国語としているニッポンへ向かった。かの地での評判はなかなかのものらしく、一流文芸評論家の賛辞を受け、「金を出して買ったことを決して後悔しない本だ」といった文芸評論らしからぬ宣伝まがいのうれしい論評を承ったりしている。まずまずの反響である。
さて、本稿の締めくくりとして、私は一言、万感を込めて申し上げよう。
「松井さん、おめでとう。やりましたね!」(終)
写真=伊那宏さん