カランジル虐殺から20年=軍警への裁判は13年1月=依然として大きな爪跡に
ニッケイ新聞 2012年10月3日付け
サンパウロ州のカランジル刑務所で囚人111人が虐殺される事件が発生して2日で20年が経過するのを受け、9月30日付フォーリャ紙が回想記事を寄せている。
1992年10月2日、サンパウロ市北部にあったカランジル刑務所の第9棟で、囚人たちの内輪もめをきっかけとして、反乱が発生した。同刑務所の看守たちはこの暴動を抑えることができなかっため軍警が出動することとなったが、ウビラタン・ギマランエス大佐が率いた軍警たちは、交渉もほとんど行なわないままに囚人たちに向かって発砲を開始した。これにより囚人たち102人が死亡。囚人同士が刺殺した9人を加えると111人が死亡した。発砲を行なったとされる68人の軍警に死者はなかった。
生き残った囚人たちから、軍警が既に降伏の意を示していた人や自室に隠れた人たちにも発砲を行なったとの証言があったこともあって、この事件は人権侵害と解釈され、国際的に大きな社会問題となった。この囚人虐殺の司令を行なったウビラタン大佐は2001年6月に起訴され、06年2月の裁判で懲役632年の判決を受けた。同大佐は9月に自宅アパートで暗殺された。
だが、この事件に絡んだ警察官の裁判はなかなか行なわれず、13年1月28日にようやく、発砲したり囚人に暴行を加えたりした軍警103人中28人の被告に関しての公判が行なわれるのが現状だ。しかも、刑務所内で回収された弾やその破片160個のうち136個が同じ口径の銃で使われたものであることから判別が困難だとして、検察局と弁護人の双方が求めた銃器の検証が行なわれないまま、裁判が行なわれることとなる。
また、同事件の遺族の1人は、銃撃されて亡くなった息子に対する損害賠償を求めた裁判で6万3500レアルを受け取ることになったが、サンパウロ州政府が賠償金の支払いに応じたのは2011年になってからだった。
カランジル刑務所は一時は南米最大規模の刑務所としても知られたが、2002年に解体された。だが、虐殺事件はその後、映画や演劇、歌の題材として語られつづけている。
また、現在サンパウロ市を脅かしている州都第一コマンド(PCC)はこの虐殺事件に不満を抱いたサンパウロ州内の刑務所の囚人が93年に結成したとされている。そのPCCと抗争中の軍警は9月27日、同虐殺事件の被告の1人であるニヴァウド・セーザル・レスチーヴォ氏を、特別巡回機動隊(ROTA)の新司令官に迎えている。