ニッケイ新聞 2012年10月5日付け
「一等客との会話よりも面白かったのは、下方の日本人の子どもたちとの交流だった。敏捷そのもので・・・ジョルジは毎日のように子どもたちを招待してはピクニックをやった。売店でコーラやサンドイッチや菓子、飴玉などを買って、下の甲板に子どもたちを集める。プールのある一等デッキには立ち入り禁止なのだ。子どもたちはみんな、日本の名前とブラジルの名前がある。ジルベルト・・・いちばん利発で賢い。まるで秘密を話すような低い声で話す。
ある朝、コカコーラを一口飲んで、ゲップしてから訊いた。
『おばさんのダンナさんは市長さんですか? でしょう? じゃなければこんなにたくさん、ぼくたちに買えるはずないもン・・・』」
そうだった・・・、当時の親たちはゲップがエチケットに反するという認識もなく、食後は当然のように大きなゲップをしたでしょうから、子どももそれを見習い当然だと思って成長しました。在住していた地方の村では村長さんが一番偉い人だったはずで、少し大きな町にでたものには市長さん。かれらこそ雲の上に住んでいる偉いガイジンだったのです。
ここではエライ=市長さん。それ以外は思慮のほかで、ジルベルトにしては最高級の市長さんとあがめたのです。巧まずして社会を活写していることになりましょうか。成功して日本へ錦を飾る人たちが、まだこの程度。現在の若者たちには信じられないでしょうが、50年前は下手をすればチョコレートだって思いのまま食べられなかった階層が日本人だったのです。
「この同じ子を、ある時、私たちのキャビンに連れて行った。床に敷き詰められたカーペットまで、驚きの対象になった。それからテーブルの上にあるサントスを出港するときに買った新聞のジョルジの写真を見てびっくりした。写真の下にあるキャプションを声に出して読みながら、ピクニックのスポンサーが誰かを発見したのだ。額を打つと、たまらないように『うわあーっ! ジョルジ・アマードだ』
ピクニックのお客さんは日増しに増えることになった。ジョルジの買い物も日を追って量が多くなり、そのうち売店のストックも底をつくようになった。男の子たちは母親を連れてき、父親を連れてき、蓄音機のロベルト・カルロスを聞いて大騒ぎをする。目を白黒させてアイドルの歌を聞いているさまはとても愛らしかった・・・」
私はゼリア・ガタイって優しいなあ、と思います。笑顔も優しくて暖かい。祖父はコロニア・セシリアと呼ばれるパラナのアナーキストたちの村に移住してきたイタリア人でした。
その後、父親はサンパウロにでてきてマルチニョ・プラド家のお抱え運転手をやったりします。日本移民だってお抱え運転手をやった人が多いし、従順で時間を守るという評判でした。ゼリアは長じては労働運動に携わった経歴から女丈夫のような印象をもちますが、写真ではホンワカと優しい。虐げられた経験があるから、弱い者に限りなくやさしくなれるのだ、と私は憶測しますけれどね。
日本人は子どもに日本語の名前とブラジル語の名前をつけることをゼリアたちは船旅で学習し、一方、ジルベルトは学校でジョルジ・アマードを習ったのでしょう。実物にあったと親たちに伝え、ああ、そうかブラジルの有名な作家なのかと顔を拝みにやってくる。まるで見えるような光景です。日系社会の昔をこういう方法で回顧するのも悪くない。
そのうち私は「ぶらじる丸」という言葉になじみがあることに気づきました。そうだ。アメリカ日系三世の山下カレンも1992年に「ぶらじる丸」という長編を英語で書いていた。メールを打って、彼女に転載願いを打診した。最終的にはメールが届いておらず、翻訳家の久保ルシオ氏の手を煩わせたのが三年ほど前でした。大急ぎで掲載された「ブラジル日系文学」35号(22頁)を探し出しました。
あった、あった。今福竜太・浅野卓夫の翻訳で第一部第一章が紹介されています。「ぶらじる丸」は1925年に日本から南米サンパウロへ移住した、クリスチャン系社会主義者たちの群像を描いた話だそうです。というのは掲載されたのが第一章(これしか翻訳されていない)だけなので、船中生活から下船し、耕地へ向かうまでの話を一人称の「僕」が語るので、全体像は不明なのです。しかし、ブラジルで書かれる移民ものとは異なり明るく新鮮な作品でした。ブラジルで書く移民話はなぜ暗くなるのでしょう。(つづく)
写真=『Casa do Rio Vermelho』の表紙