ニッケイ新聞 2012年10月18日付け
江戸時代の鎖国政策は意外な点でブラジルとつながっていたとの講演「トルデジリャス条約、徳川幕府の鎖国政策と国際法」が9日午後、サンパウロ総合大学法学部の教授会会議室で広島大学の西谷元教授(国際法)によって行なわれ、USP学生や教授ら約30人の聴衆は、興味深い歴史のつながりに引き込まれるように聞き入った。
トルデジリャス条約(1494年)は、新大陸発見のために船団を盛んに送り出していたカトリック界の二雄ポルトガルとスペインの紛争を未然に防ぐため、教皇アレクサンデル6世が仲介して欧州以外の新領土の分割方式を定めたもの。
その条約で大西洋が西経46度37分で分けられ、東側がポルトガル領になったため1500年に発見されたブラジルが同国植民地に、その線の西側のエクアドルからアルゼンチンまではスペイン植民地として出発した歴史がある。当地に関係する初期の国際条約だ。
実は太平洋に関する分割は同条約には明記されなかった。その続きとしてサラゴサ条約(1529年)が締結され、その分割線は北海道を通過していた。その後、1543年にポルトガル人が種子島に上陸して日ポ接触が始まった。「オランダ商人は幕府にこの条約の存在を伝え、『このままでは日本は二つに分割される可能性がある』と吹き込んだ。だから将軍は中国、オランダとは交易を続け、カトリック2国とは絶つ形で鎖国体制をとった」と説明をした。
天草の乱の後、日本は鎖国され、ペリー提督の黒船の威嚇を受けて1854年に初の国際条約、日米和親条約という不平等条約を締結した。
海洋法には「領土」と同じく「領水」が定められている。領水のうち湾内等を示す「内水」は国家防衛上、外国が勝手に近づくことを許されていない。「ペリーはこの時、海洋法を破って江戸湾内に進入し、羽田沖まで近づいている。もしもっと近づいたら江戸城まで大砲が届く可能性があった」という。
「そのような武力行使の強制力をもって結んだ条約は現在なら無効。でも19世紀は戦争自体が合法だったから問題にならなかった。つまりペリーは海洋法こそ破ったが、黒船の行為は国家に対する脅迫罪としては成立しない」との解釈を示した。
日本で罪を犯した外国人の裁判は、その国の領事に委ねるなどの「領事裁判」に代表される不平等条約を覆すためには、日本が文明国だと西洋から認められる必要があった。明治政府は懸命に西洋の文明を模倣し、中でも独仏から法学者を招聘して法体系を移殖した。
「文明国と認められるには経済、法律などが西洋と同じシステムをもっている必要があった。でもそれだけでは対等な勢力と扱われなかった。国力の中でも武力を持つことで初めて対等に扱われた。ここから大戦への道につながっていった」と締めくくり、太平洋戦争までの日本の道のりが、実はトルデジリャス条約から始まっていたという興味深い見解を講演した。
岡本広大副学長に感謝状=USP法学部と友好深め
西谷元教授の講演に先立ち、USP法学部のアントニオ・マガリャンエス・ゴメス・フィーリョ学部長は、来伯中の広島大学の岡本哲治(てつじ)副学長に感謝状と記念品として大竹富江さんの絵を手渡した。
この7、8月にUSP法学部学生13人が広島大学で夏期講習を受けており、マガリャンエス学部長は「その時に大歓迎を受けたとの報告を聞いている。うちの学生が、世界史に刻まれた広島で得がたい経験をさせてもらった」と喜んだ。
岡本副学長は「8月の平和式典にも参列してもらい、充実した滞在になったと聞き、私も嬉しい。これも二宮正人USP教授らの尽力のおかげ」と返礼の言葉をのべた。