ニッケイ新聞 2012年10月25日付け
昨年50周年を迎えたブラジル相撲連盟(籠原功会長)は、須永忠雄総務を編集長にすえて1年6カ月をかけて50周年記念誌『ブラジル相撲史』を編纂し、この20日に発刊記念式典をサンパウロ市ボン・レチーロ区の南米相撲道場で行い、安部順二連邦下議ら来賓を含め、約50人が慶祝に馳せ参じた。同時に、世界大会向けて翌日に香港へ旅立ったブラジル代表12人の壮行会として激励の言葉が贈られた。
籠原会長は挨拶の中で、「コロニア相撲の最初は1914年にグアタパラ耕地で開かれた大会で、平野運平が総裁を務めた。そこから一世紀——あの当時はほとんどが日本人だったが、今は9割が非日系の時代になり、ようやく大相撲に幕内力士魁聖が生まれた」などと『相撲史』の内容に触れながら喜びを語った。
ペレイラ・バレット時代に「三笠山」の四股名でならした桑原三郎さん(編集委員長、84、和歌山)は、「同じ部落に大阪相撲で十両までやったという荒鷹(あらたか、本名=伊木虎造)がいて、彼の部屋には若い衆が集まっていた。アリアンサには伊勢錦(大相撲で小結経験)、一番盛んだったノロエステ線はじめ3線の各支部にはみな、そんな相撲部屋があった。戦前はちょんまげ結った若者もいて、行司は軍配姿が当たり前、賭け相撲もけっこうあった」と懐かしむ。
1951年には日本から相撲指導に秀の山(現役時代は笠置山)、楯山、武蔵山、式守(行事)らが来伯し、全伯を指導してまわった。桑原さんはこの時に笠置山の化粧回しを貰い受け、後に移民史料館に寄付した。
四股名「西の海」で活躍した尾迫(おざこ)幸平さん(85、鹿児島)も「これが僕の宝物」と、その時に33日間、全伯を同行して歩いた時に笠置山からもらった「無我」という書を見せて、胸を張った。
終戦後、全伯青年連盟主催の第1回全伯相撲大会が1947年にサンパウロ市アクリマソン公園で行われた。以来、同大会には200人が四股名を付けて出場し、数千人が固唾を呑んで観戦したという。
笠置山らが「力相撲で危ない。素人相撲式に」と指導した結果、四股名を辞めた。勝ち負けの思想問題から第8回で中止になり、活動は一時後退した。しかし、相撲愛好家から再建を要望する声が高まり、青年連盟とは切りはなした形で61年にモジで全伯大会が再開され、現在のブラジル相撲連盟設立につながり、昨年50周年を迎えた。
最後にブラジル代表が土俵前に並び紹介された。その一人、重量級の樋口高大選手(たかひろ、29、二世)は本紙の取材に応え、「今回の代表には日系が4人いる。魁聖のように日本で有名になりたいと夢見ている選手が何人もいる」と現役選手の雰囲気を伝え、「今回、精一杯合宿して稽古をたくさんやった。いろんな方から助けてもらって香港へ行く責任を感じて、緊張している。ガチンコでぶつかって行きたい」と抱負をのべた。
安部下議は羽藤ジョージサンパウロ州議らと共に連邦議会の表彰状を桑原さんと籠原会長に手渡した。
「後世に記録残したい」=須永さん感無量で刊行祝う
須永忠雄編集長(73、帰伯二世)は刊行式典で「昨年は連盟長年の夢でありました新しい相撲道場も完成し、相撲連盟最初の大相撲幕内力士魁聖の誕生など、記念すべき事実の記録を後世に残すべく編集を始めました」と感無量の面持ちで挨拶し、編纂半ばで急逝した本村巌夫(最初の編集委員長)、小針一両先輩に追悼の言葉を捧げて締めくくった。
編纂の苦労を尋ねると「資料がなくて困った」が第一声だった。戦前の歴史は中村東民の『ブラジル日本相撲史』を参考にし、あとは邦字紙の記録を繋ぎ合わせた労苦の作であり、コロニア相撲ファンには堪えられない記録ばかりだ。
妻アウロラさんが翻訳し、日ポ両語になっている。購入を希望する人は大瀧多喜夫同協会理事(11・99738・6068)まで連絡を。