ニッケイ新聞 2012年10月27日付け
来年3月でニッケイ新聞が創刊15周年を迎えるのを記念し、歴代の記者が日夜取材に駆け回り、本紙に掲載した記事の中から、独断と偏見で選んだ15個のトップニュースを、「コロニア15大ニュース」としてお届けする。続々と報じられたこれらニュースから、コロニアにとって前世紀から今日までは〃激動の時代〃であったことが伺える。
激動の21世紀を駆け抜け=南銀合併から義捐金まで
1位=移民百周年を盛大に祝う=一年通し全伯で記念行事
1908年に最初の移民船「笠戸丸」がサントス港に到着して百年目を迎えた2008年は、「ブラジル日本移民百周年」として一年を通じて日伯両国でさまざまな記念行事が行われた。世界最大の日系人口を誇るブラジル日系社会の百年の足跡を後世に伝えようと、全伯各地で祝賀イベントが相次いだ。
03年10月10日付け「決定したの? 百周年事業=センター案先走りか=コロニア不在で日本へ提出=戸惑い隠せない関係者」では、百周年記念祭典協会でも議題にのぼっておらず、まだコロニアの総意とはいえない段階の同計画の資料を、日本側で早々に配していたことを報じ、コロニア不在で進められた当時の上原体制のあり方に疑問を投げかけた。
その後も、手を緩めずに同計画に対するコロニアの声や反応を記事にし続けた。
08年1月1日付け本紙では年間を通して開催されるイベントの一覧を掲載しており、随時各地での祝典を報道している。同18日付けではルーラ大統領の立会いで日伯交流年の開幕セレモニーがブラジリアのイタマラチー宮で行われて120人が出席し、交流年のマスコットキャラクターは漫画家のマウリシオ・デ・ソウザがデザインし話題を呼んだことが報じられた。
音楽やスポーツ、芸能などの文化イベントのほか記念建設事業も多く、特に6月中旬は約2週間にわたってブラジル全国の移住地等で集中して関連記念式典が行われた。
皇太子殿下も来伯され8都市を訪問された。また、ブラジル外務省は日伯の外交面、経済面、文化面における相互関係強化、地域社会への貢献、在日ブラジル人への支援に貢献したと認められる人に対し、「百周年記念叙勲」を授与した。
2月のカーニバルではチーム「ビラ・マリア」が日本移民や日本文化(鳥居、芸者、仏像、新幹線など)をモチーフにした山車や衣装で登場した。異例の約1千人の日系人を含め、参加チーム最多の4900人がパレードを繰り広げた。
4月に神戸市の兵庫公館では記念式典が開かれ、笠戸丸の出航時刻だった午後5時55分に神戸港に停泊中の船が一斉に汽笛を鳴らした。
ニッケイ新聞も百周年記念写真集『百年目の肖像』を09年4月に発行し、わずか数カ月で3千冊を売り切った。日本側は皇室や国会図書館、小泉純一郎元首相、各県庁、デカセギ集住地など、ブラジル側もルーラ大統領(当時)をはじめ政府関係者などに献本している。
百周年に関連して、08年1月1日付け新年号で「特集=私の町の鳥居自慢=あるわ、あるわ十基以上=全伯の鳥居を一挙紹介」して、百周年の前後に続々と建設された〃鳥居ラッシュ〃の様子を報じた。
さらに09年6月の移民の日特集では「知られざる鳥居大国ブラジル=全伯に68基以上が判明=日系のシンボルとして=昨年一気に35基増=過半数をサンパウロ州占める」との調査報道をし、ブラジルが日本以外で最多の鳥居大国であることを初めて報じた。
2位=大震災で義捐金6億円=ブラジルから復興を祈って
2011年3月11日に発生した東日本大震災で生じた未曾有の被害を受け、当地で被害が報道された当日から日系団体や県人会はいち早く支援活動を開始した。本紙は募金状況を伝えるキャンペーン記事を連日流し、気運を盛り上げた。
ブラジリア、アマゾン地域、北東伯、ノロエステ線、パウリスタ延長線、ソロカバナ線、パラナ州、リオ州、南麻州、サンタカタリーナ州などの日系集団地では独自に義捐金の募金活動が、同時多発的に展開された。
編集部では各地の日系団体に徹底的に電話をかけ、募金総額を調査した。その結果、義捐金総額は同年6月末時点の本紙調査で少なくとも約1160万レ(約5億9千万円)に上ったことがわかった。
調査に漏れた団体、寄付しても公表していない団体を含めると実際の総額は6億円を軽く超えるとみられる。日本に対する義捐金でこれほど集まったのは終戦直後のララ物資運動以来だ。
今や世界最大を誇るブラジル日系社会の底力を見せ付けると同時に、両国間の絆の強さが改めて確認されるきっかけともなった。
主要日系5団体(文協、県連、援協、商工会議所、日伯文化連盟)による募金キャンペーンでは約1億7930万円が集まり、東北3県のほか被災地でない県人会も浄財を送った。
県連日本祭りや被災県人会では震災写真展が開かれ、サンパウロ州政府との連携プロジェクト「SOS Japan」も発足、支援イベントが行われた。
特筆すべきは、連邦政府からの50万ドルを筆頭に、一般の日系人からも多くの支援が寄せられたことだ。単なる資金面での支援にとどまらず、母国を襲った未曾有の災害に心を痛めた一世やその子孫、一般ブラジル人が、被災の復興を一様に願った。
既に募金は打ち切った団体が大半だが、複数の団体が引き続き別の形での支援を表明した。(2011年6月30日本紙「移民の日の特集号」にて義援金を贈った団体のリストを掲載)
3位=南米銀行が合併消滅へ=サンタンデールが吸収
従業員は4600人、139もの支店を持つ日系唯一の銀行であり、コチア産組と並ぶコロニア最大の組織だった南米銀行が、1998年4月にイタリア系のスダメリス銀行に経営権を譲渡、事実上の吸収合併となり、60年の歴史に幕を下ろした。同年4月4日付本紙が報じている。
南銀はもともと1938年、前身のカーザ・バンカリア・ブラ拓(ブラジル拓殖組合銀行部)が金融機関として業務を始め、1940年8月に発展解消して設立された。同年4月15日付本紙では、「時代の流れの中、中小規模の銀行として生き残るための最後の手段だった」と吸収合併に至った経緯に関する伝田耕平社長のコメントを掲載している。
なお、07年10月12日付本紙によれば、南米銀行の口座を引き継いだスダメリス銀行は一時期、ブラジル国内資本のイタウー銀行に買収されそうになったものの、結局は大手オランダ系のABNアムロがスダメリスを買収し、9月に同アムロ傘下のレアル銀行がスダメリスを完全吸収した。
その後スダメリス銀行は2007年9月にはレアル銀行に完全吸収され、直後の10月にはサンタンデール銀行に買収されることが確実となったと報道された。
4位=定住化する在日ブラジル人=大量帰伯時代が到来
2008年10月31日付本紙によれば1996年末時点で、永住者資格を持つブラジル国籍者は931人だったのが2000年末には9602人と、5年で10倍に増え、同年以降は毎年1万人のブラジル人が「永住者」資格を取得した。
日本への就労開始から20年が経った2005年、永住組は5万人を超え、07年末で9万4358人を記録した。日伯両国を往復しているデカセギの数は減り続け、定住化傾向はますます高まりつつあった。
総数は07年末時点で31万7千人弱を数えていたが、08年10月、米国発の世界金融危機の勃発で、「デカセギ大量失業時代」へ突入、状況は一変した。
急速な景気の悪化でデカセギが次々に失業し、09年3月までに約4万、9月までには約6万5千人が帰国した。
戦後移民は全部で5万人程度だが、08年からのわずか3年間で10万人もの在日ブラジル人が帰伯した。日伯間の人口移動を考えた時、戦前を含めて過去最大の〃民族大移動〃だった。
日本の厚生労働省は08年3月、失職や生活の困難に直面する在日日系人に対し、就労希望者への準備研修の実施と帰国希望者への支援金支給を発表した。
この支援金に関する議論を喚起するため、09年3月26日付け「《記者の眼》帰ったらデカセギじゃない!?=与党支援策の隠れた一面」、09年4月7日付け「《記者の眼》どっちが妥当性欠く?=大使館から抗議文」、09年4月30日付け「波紋広がる日系人ビザ制限問題=ブラジル労働大臣が抗議」など立て続けに報じた。
日米マスコミ報道も加わって、結局は帰国支援金を受け取ったデカセギの再入国制限期間としては「原則3年」とする考え方が、当時の河村建夫官房長官から示された。
本紙ではデカセギに関する報道に力を入れており、多くの連載を発表してきた。
例えば、01年10月連載「出稼ぎ高齢者の見た日本」(12回)、2002年7月連載「帰国子弟−デカセギ時代の〃新人類〃」(11回)、伯日比較教育シンポジウムの様子を伝えた05年9月連載「デカセギ教育=シンポジウム」(4回)、07年9月連載「移民化するデカセギたち=根を張る在日ブラジル人社会」(7回)などその時、その時の動向を詳しく分析してきた。
また、08年8月連載「分岐点に立つ若者たち=在日子弟の悩みと将来」(3回)、08年1月連載「日本の教育現場レポート=保見団地のデカセギ子弟」(2回)、訪日後に連絡を絶ってしまうデカセギが後をたたず、苦悩する在伯留守家族の様子をレポートした08年12月連載「行方不明になるデカセギたち〜在伯留守家族の苦悩〜」(10回)など様々な視点で追った。
金融危機直後の09年2月連載「激変するデカセギ事情=大挙帰伯の真相に迫る」(7回)、同年2月連載「分岐点に立つ若者たち=第2部・デカセギ子弟の帰化問題」(4回)で帰化するかどうかに悩む在日子弟の様子を伝えた。さらにテーマ「デカセギ」日本・ブラジル間に横たわる様々な問題を、両国の有識者らが交替で論じる企画『日伯論談』を毎週土曜日に掲載した。
10年4月連載「ブラジルと日本のはざまで=帰伯デカセギの苦悩と決意」(5回)、中でも2012年6月連載「日本に戻るか定住か=デカセギ大量帰伯世代」(8回)は日本のニュースサイトや北米の邦字紙からも転載の要望が寄せられるなど、国際的な反響を呼んでいる。
5位=アマゾン日本人移住80周年祭典
2009年はアマゾン日本人移住80周年の年で、北伯各地で記念祭典が行われた。その幕開けとして、パラー州トメアスー移住地で9月15日、前夜祭が開催され、同月17日付け本紙が報じている。
翌日の記念式典には600人が集まり、南米拓 殖株式会社の創立に尽力した鐘淵紡績社長の武藤山治氏の孫、武藤治太氏、県連ふるさと巡りで現地を訪れていた211人の慶祝団も参加した。
その後はべレン市で18日に、アナ・ジュリア・カレパ州知事、日ブラジル会議員連盟の井上信次衆議院議員らを迎え記念式典(生田勇治祭典委員長)を、マナウス市では20日、国内外から500人が集い、西部アマゾン日伯協会会館で記念式典(錦戸健祭典委員長)があった。
パリンチンス市では22日、パリンチンス文協(武富マリオ会長)とアマゾン高拓会(佐藤ヴァルジル会長)が中心となって記念式典が行われ、24にはロライマ日伯協会(辻クラリッセ会長)主催でロライマ州ベラ・ビスタ市でも記念式典が開かれた。
また翌年2月には、記念事業としてパラー州初の鳥居が汎アマゾニア日伯協会(生田勇治会長)の入口に建立され、落成が行われている。
09年7月20日には本紙主催で同80周年を記念して第1回トメアスー移民の山田元氏による講演を行った。09年6月から9月まで長期連載「アマゾンを拓く=移住80年今昔」を掲載し、それをまとめ、ポ語訳とともに本紙で刊行すべく準備中だ。
6位=日系高齢者の6人に一人は孤老か
この15年間でコロニアの高齢化、核家族化、デカセギによる空洞化などが原因で、身寄りのない、あるいは一人暮らしの高齢などのいわゆる〃孤老〃の存在が明らかになっている。
1998年5月28日付本紙は「経済力のない老人の急増」という見出しで一報を報じており、それによれば家族や親戚がいない、日本に帰る資金がない、たとえあっても日本で帰る家がないために、どうしようもなくなって援協を訪れ、生活援助を受ける高齢者が増え始めたことがうかがえる。
2012年2月24日付本紙は、援協の山下忠男副会長への取材から、家族の中で働き手が3人いないと移住できなかった時代、構成家族として来伯し、独立後も結婚せず、そのまま年を取った状態の人が少なくなかったようだと報道している。
何らかの事情で家を飛び出し、長い年月を経て戻ったものの受け入れられず、身寄りを失った人もいたようだ。援協福祉部では日々様々な相談が持ち込まれる中、貧困相談は毎月数十件に上っており、厳しい状況に置かれた高齢者移民の姿が浮かび上がっている。
7位=デカセギ犯罪と国外犯処罰
90年代から日本で罪を犯すブラジル人が激増すると同時に、帰伯逃亡する問題が世紀末から起きはじめた。その最初が、99年に浜松市で発生した日本人女子高生をひき逃げして帰伯逃亡した事件だった。初の代理処罰裁判の被告となった桧垣ミルトンに対しては08年11月、サウーデ区の州地裁が禁固4年の刑を言い渡した。
05年に乗用車と衝突し、相手方の車に乗っていた幼児を死亡させて帰伯逃亡した疑いの藤本パトリシア容疑者の裁判は今年7月30日に初公判が開かれ、まだ進行中だ。日伯間の犯罪者引渡し条約締結などを求める署名活動が遺族を中心に展開され、半年で66万人もの署名が集まるなど大きな話題を呼んだ。
本紙では、静岡県湖西市在住の被害者・山岡さん宅に取材に訪れたほか、サンパウロ市南部の藤本容疑者宅への突撃取材も敢行した。
05年にレストラン経営者を絞殺、売り上げ金4万円を奪って帰伯逃亡したウンベルト・ジョゼ・ハジメ・アルバレンガ被告に対しては、34年5カ月の禁固刑が2010年7月に確定した。
一方、デカセギ子弟による犯罪率はこの15年でいったん激増したものの、近年は在日ブラジル人による犯罪はピーク時から8割も減り、少年犯罪にも改善がみられてきている。
07年にはブラジル国籍者の検挙人数が1255人、検挙件数は7696件と過去最高を記録し、最悪の状況だったが、08年末の世界金融危機後の大量帰伯から状況は変化した。今年10月12日付本紙によれば、在日ブラジル人による犯罪の検挙件数は、過去10年におけるピーク時から約8割減になったことがわかった。
本紙は国外犯処罰に関して最も詳細に報じてきた。警察庁統計などを駆使して犯罪動向を繰り返し報道し、コロニアのデカセギ問題への意識を深めることに一役買ってきた。
8位=日本スポーツ界でブラジル人選手が大活躍
この15年は日本のスポーツ界で活躍する日系、非日系を含めたブラジル人の存在が目立った。
まず、日本に帰化した2人の非日系サッカー選手がW杯に出場した。サンパウロ州出身のワギネル・アウグスト・ロペス(帰化名は呂比須ワグナー)は1998年のW杯フランス大会予選の対韓国選に日本代表メンバーとして出場、パラナ州マリンガー出身のアレサンドロ・ドス・サントス(帰化名は三都主)は、02年の日韓大会、06年のドイツ大会で日本代表メンバーに選ばれた。
また、三世の田中マルクス闘莉王(パ州パルメイラ・ド・オエステ市出身、日本に帰化)が2010年6月、日系人として初めて日本代表入りし、W杯南アフリカ大会に出場した。
なお、本紙では2002年5月28日付から全15回で、「海を渡ったサムライたち〜日伯セレソン物語」と題した、日本で活躍したブラジル人選手に関する連載を掲載している。
角界でも朗報があった。ブラジル人としては4人目の関取、三世の魁聖(友綱部屋、本名=リカルド・スガノ)の快進撃はコロニアを活気付けた。 2010年7月場所で新十両に昇進、翌年5月の技量審査場所では10勝をあげて新入幕を果たし、東前頭5枚目まで昇格したものの4場所連続で負け越しが続いた。
今年2月23日付本紙によれば、帰国して行った記者会見で魁聖は、昨年から坐骨神経痛で腰を痛めていると明かしており、「まず幕内に戻り、三役を目指したい」と話している。
9位=小泉元首相来伯、ルーラ大統領訪日
小泉純一郎首相(当時)が2004年9月、ブラジルを公式訪問した。同月15日付け本紙によれば、ルーラ大統領(当時)と首脳会談を行ったほか、サンパウロ市で会議所や日系団体代表らと懇談、チエテ川流域環境改善事業の視察、先没者慰霊碑に献花し、文協講堂での歓迎会に出席した。
この時、ヘリコプターでサンパウロ州プラドーポリス市のサトウキビ畑を視察する予定があることを知った本紙記者が、前日にグァタパラ文協役員と電話して話した際に「運動場に首相歓迎のメッセージを大書きする」というアイデアが出て、同役員らが実行にうつした。
地上のその文字を実際に見た首相が急きょ着陸を指示した結果、予定を変更してグァタパラ移住地に着陸することになり、現地の200人と交流した経緯がある。同移住地での歓待ぶりを翌日の講演会時にふと思い出した首相は、瞬間的に感涙に咽び、その姿が日本でも大々的に報道されて話題を呼んだ。
後に小泉氏から揮毫の書が文協に寄贈され、会館に記念碑が建立されたことは、地元の人の大きな誇りとなっている。
そのお返しとして翌年05年にルーラ大統領が訪日した様子を、同年6月連載「ルーラ大統領=訪日の成果は」(4回)で伝えた。
両国関係のあり方を大所高所から議論し、一層高い次元で推進するための方策を明らかにすることを目的とする「日伯21世紀協議会」が発足した。「新たな日伯関係をめざして」と題して政治経済、文化にわたる各分野の協力、交流促進に加え、ブラジル日系社会と在日ブラジル人社会、08年の日伯交流年など各項目において様々な提言が行われた。その中に盛り込まれていたブラジルの「地上デジタル放送の日本方式採用」は、06年に決定している。
小泉首相の突然ともいえる来伯が、その後の日伯経済交流の起爆剤となったことは特筆に価する。
10位=戦後移住50周年祭挙行
2003年は、ブラジル戦後移住50周年を迎えた。前年には「戦後移住50周年記念祭実行委員会」(中沢宏一委員長)が発足し、同年7月26日、サンパウロ州議会モニュメント・ホールで「ありがとうブラジル」をテーマに記念式典が開かれた。
同月29日本紙によれば、当時の池田維大使、ジェラルド・アルキミン州知事、広島、高知、宮城、岩手各県の知事、福岡、兵庫両県の副知事も来伯し、約600人が出席した。アルキミン知事は「日系人抜きに現在のサンパウロ州はない」とのべ、中沢委員長は「戦後移住の経緯と、我々を受け入れてくれたブラジルへの感謝を伝えていくべき」と式典の意義を強調した。
1953年に始まった戦後移住は実質的に70年代中頃に終わった。総数は5万4千人だが、JICAの『業績史』によれば、統計外の自由渡航者を含めると約7万人に上る。
海外で飛躍したいという個人の意思によった移住とはいえ、総体的にみれば戦前と同様、〃国策的〃色合いが強かった。
特色としては非農業移民の割合の高さ、高学歴や専門技術をもつ単身者の多さ、非定着率が高く顕著なUターン現象がみられたことなどが挙げられる。
またその他、同委員会はサンパウロ総合大学内にある日本庭園の修復工事を行い、同年10月に引渡し式を行った。
11位=県連 日本祭りがスタート
日本移民90周年記念の目玉事業として、1998年7月に2日間にわたり、網野弥太郎会長のもと県連主催で「郷土食・郷土芸能フェスティバル」がサンパウロ市のイビラプエラ公園マルキーゼ広場で開かれた。のちに「日本以外で最大の日本文化イベント」と言われるようになる行事の開始だった。
日本移民の90年の歴史や日系人社会の変遷を紹介し、郷土食の販売や芸能の披露、進出企業も宣伝や商品の販売などを行い、コロニアを上げた一大イベントだった。同年7月28日付本紙は「のべ12万人が訪れ大成功を収めた」と大々的に報じている。
以降毎年開催され、「ふるさと祭り」としてコロニアの冬の風物詩として定着した。その後は「日本祭り(フェスティバル・ド・ジャポン)」として、今や世界最大級の日本文化を紹介する祭りに成長し、一般市民にも知名度が高まり、日系社会全体が誇れる行事になったともいえる。
始まった頃の数年間はずっと赤字やトントンの状態だったが、近年は数十万の黒字をたたき出している。
今年は15回目を迎え、昨年を上回る20万人以上が来場したと7月17日付本紙が報じている。ミシェル・テメル副大統領も訪れ、各県人会が腕によりをかけて作る郷土食も例年通り大好評だった。
また、昨年はマット・グロッソ州クイアバ市で、今年はミナス・ジェライス州や南大河州ポルト・アレグレでも大規模な日本祭りが開催されており、この県連日本祭りの成功の影響は全伯に広がりつつある。
12位=日本食ブームが到来
この15年間で、日本食はブラジル社会の中ですっかり「市民権」を得た。高級なものからテマケリアといった手軽なものまで広がり、2006年にはシュラスカリアの数を日本食レストランが超えたともいわれる。
2007年3月15日付本紙によれば、同月6日に国際交流基金などの主催で講演を行ったサンパウロ総合大学の森幸一教授は、ブラジルでの日本食の受容の背景として、「健康への懸念の強まり」「日本食のアメリカでのブーム」「食材が安全になったこと」「甘味・旨味が発見され、ブラジルに存在しなかった新しい味がでてきたこと」「寿司メン(寿司職人)の寿司に対しての工夫が高いこと」「中流階級の人間は新しいもの好きが多いこと」などの多くの要因を挙げている。
また、08年5月14日付本紙では、南麻州の州都カンポ・グランデ市では沖縄ソバがフェイラの名物として人気を集めており、市の無形文化財に指定されたことを、日本語媒体としては最初に報じた。その後、沖縄タイムスやNHKなど日本のメディアでも大きく扱われるようになった。
なお本紙では、02年5月に全記者によるリレー連載「日本食フロンティア〃食の移住史〃」(13回)でゴーヤー、豆腐、ヤキソバ、漬物、和菓子、日本酒などのブラジル導入と変遷を伝えた。
また今年6月14日から、「ブラジルに日本食を占う」と題し全9回の連載で、当地に進出する日本の食品会社関係者を招いた座談会記事を掲載しており、今後の当地の日本食の展望を占っている。
13位=アニメブーム
空前のアニメやマンガブームがブラジルでも起こりめたのは近年のことだ。その影響で、日本語を熱心に学習する非日系人の増加も指摘されて久しい。
国内最大のアニメ・ファンの祭典「アニメコン」(アニメ・コンテンツ・エキスポ)は1999年に初めてサンパウロ市で開催され、関連商品の販売やワークショップ、展示などで、予想を上回る大きな賑わいを見せた。初回の入場者数は3千人、2年後の2001年にはその4倍の1万2200人にまでに上っている。
本紙では2003年1月21日から全9回の連載で日本文化、アニメブームの全貌を探っているが、それによれば、ブームの発端は1984年、サンパウロ総合大学の漫画研究者グループ、文協漫画展委員会が合併し、ABRADEMI(ブラジル漫画家協会)が発足したことにさかのぼる。
この組織がブラジル初の愛好者活動を開始し、漫画やアニメ隆盛の下地となった。同年は国際交流基金が日本から手塚治虫氏を招待して講演会が開かれ、その後もコンクールの作品など地道な普及が続いた。
90年代半ばからは日本の人気のある出版物がブラジルに大量に輸入され、翻訳出版が行われたため市場は一気に拡大し、雑誌やテレビなどのメディアでブームは確立された。全伯のファン数は2001年時点で1600万人とも言われ、現在はさらに増えていると想定される。
14位=最後の笠戸丸移民 中川トミさん100歳で死去
笠戸丸移民で唯一の生存者だった中川トミさんが、2006年10月11日、老衰のためパラナ州ロンドリーナ市で死去した。
NHKなどの大手マスコミはじめ各地方紙、伯字紙など日伯両国で約20紙以上のメディアが訃報を扱うなど大きな反響を呼んだ。享年100歳。本紙では生前から度々取材しており、10月12日に訃報を掲載した。
トミさんは1906年10月6日、現在の熊本県熊本市で出生した。1908年6月18日、1歳8カ月で、第一回ブラジル日本移民船「笠戸丸」で両親と2人の姉とともに着伯した。
日本政府からは勲六等瑞宝章を受章し、2004年にはパラナ州名誉州民。2006年6月には、かつて暮らしたプロミッソン市議会から名誉市民章を受けている。ロンドリーナ市の西本願寺で営まれた告別式には、300人以上が弔問に訪れた。
その後、ロンドリーナ市の百周年組織委員会が記念事業として市内セントロに「トミ・ナカガワ広場」を建設し、市民の憩いの場となっている。
15位=沖縄移民百周年と世界ウチナーンチュ大会
本紙では日系社会人口の10分の1を占める沖縄系コムニダーデの出来事にも多くの紙面を割いてきた。
県人会本部や支部で行なわれる定期的な行事はもちろん、08年8月の沖縄移民百周年では同年9月24日付け連載「琉球大学移民センター百周年記念シンポ=移民百周年とウチナーンチュ」(2回)も行なった。
第4回世界ウチナーンチュ大会前夜の現地の様子をレポートした06年10月「〃琉僑〃=日本との新しいわり方=世界ウチナーンチュ大会が目指すもの」(6回)、第5回世界ウチナーンチュ大会では11年11月連載「子孫と沖縄結ぶ「万国津梁」=母県と県人会の関係探る」(22回)で沖縄系の歴史や世代論から大会の様子までを詳細にレポートした。