ニッケイ新聞 2012年11月10日付け
タグアチンガの平沢醇さん(あつし、78、長野、コチア青年1次9回)は、「首都を作るって言うんで野菜作りに入った人が多いね。昔はサンパウロからカミヨンで持って来てたから値段が高かった。要はこの辺はセラードでしょ、土が悪くてシュシューぐらいしか出来なかったんだ」と苦難の道を振返る。
強酸性の土壌を改良するためにヘクタール当り2トンも石灰を入れ、そのあと肥料を入れないと利かない状態だった。
「最初は水もない。肥料もない、気候も分からない状態で、日本移民はどんな品種がいいか一から研究した。軍隊に頼んで貨物機に鶏糞積んで来てもらって、土壌改良し、ようやくいろいろな野菜ができるようになった」と振返る。
ブラジリアの日系史は、まさに〃農業の神様〃日本移民らしい逸話にあふれている。「農務省の役人も、研究熱心な日本移民ならやり遂げるだろうと募集したときいている。日本移民はその期待に見事に応えてきた」と胸を張る。
平沢さんは農家の次男に生れ、「うだつを上げよう」と移住を決意し57年にリオに入植、後にミナスに北上して、77年からゴヤス州に入ったという。「作りさえすれば売れた時期もあったが、今じゃ、日本人から学んだブラジル人がいいもの作るようになって」と少し表情を曇らす。
高柳治郎さん(82、埼玉)もコチア青年一次、1955年9月サントス着だ。「コチア青年は最終的に40人ぐらい首都に入った。僕は最初アルバレス・マッシャードへ。みんなあっちこっち放浪してから、ここへ集まった。今残っているのは20人ぐらいかな」という。
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荒木茂高さん(コチア青年1次1回、しげたか、80、三重)は最初にアチバイアで4年の義務農年を終えてから、59年にブラジリアへ入った。「あの当時、ブラジリアにはコチア青年は誰もいなかった。タグアチンガも家が20、30軒しか建っていなかった。トランク一つぶら下げて『いけば何とかなる』と思っていた。今思えば無鉄砲だった」と大笑する。
「その頃はあの松永さんもボロボロのバス3台しかなく、建築労働者をいっぱい積んであっちこっちに運んでいた」という。「最初は自給自足、10年後にやっと家内(花嫁移民)を日本から呼び寄せた。彼女は東京の松下電器に勤めていたのにこっちに来たらランプ生活…。もちろん、事前に文通で知らせてありましたよ」。子供は3人、うち長女はブラジル外務省に入り、在スペインブラジル大使館に勤務する。
荒木さんは「パラシオ・デ・アウボラーダ(大統領公邸)の裏には、実は立派な日本庭園があった。日本人の草分けの一人、小野山三郎(兵庫県人)という農業技師がいて、庭師の仕事をしていた関係で彼はJKとベンアミーゴだった」という知られざる逸話を語りはじめた。
小野山さんは養蚕移民で20年ほど前に約80歳で亡くなったという。この日本庭園が現在もあるのかは分からないという。「小野山さんの紹介で、JKが大統領を辞めた後、リオにある彼のファゼンダを個人的に訪問したことがある。そしたら本人が出てきてビールを注いでくれ、サシ(差し向かい)で乾杯までしたよ」と笑う。
1970年の少し前だ。「野菜を作ってもらうために日本人に来てもらいたかったと言っていた」とし、若きコチア青年とJKとの珍しい思い出を披露した。(つづく、深沢正雪記者)
写真=「日本移民は最初、野菜作りで苦労した」と語る平沢醇さん(上)/JKとの思い出を語る荒木さん