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第13回=バレイリンニャス=トヨタ車が一番多い町=「砂丘ではバンジが最高」

ニッケイ新聞 2012年11月27日付け

さっそうと艀を降りるバンジ、続くのもバンジ

 一行の浜口洋さん(68、三重)も小山徳さん同様に工業移民で、最初はNEC、73年からはテレブラスに勤めていた。「軍事政権は電信電話による全伯のインテグラソン(統合)を目指していた。70年代にようやく電話が普及したが、それまではリオ・サンパウロですら電話をかけるのに半日待ったりした」と思い出す。
 軍事政権は電信電話公社にポルト・アレグレからマカパーまで一瞬にしてマイクロウェーブで飛ばす構想を立てさせ、60年代後半に入札を実施し、欧米の激しい売り込みを抑えて、ブラジルNEC(1968年創立)が入札した。
 カラーテレビ用の映像を飛ばすことも全伯マイクロウェーブ構想の重要な目的だった。70年のサッカーW杯メキシコ大会でブラジルが3度目の優勝を飾ったのを契機に、当地では一気にカラーテレビへの欲求が高まり、軍事政権が実施した。ブラジル人としてのアイデンティティを醸成するには、広大な国土に同じ映像、ニュースを流し、国民に共時性を感じさせる必要があり、そのための国家的基幹設備だった。
 青年隊員らの奮闘により、72年2月19日、南大河州カシアス・ド・スル市のブドウ狩りの映像が北伯ベレンで初めて生中継の試験放送された時、小山さんは「これでブラジルの電信電話は世界的なレベルになった」と充実感をもってパラー州都で見ていたという。
 72年3月31日には正式な公開放送が始まった影には、日本企業と技術移民の血と汗と涙が隠れていた。
 小山さんは「今ではマイクロウェーブじゃあチャンネル数が足りなくなって、もう衛星放送とか光回線の時代だけど、まだ設備は残っているよ」と車窓を指差した。
 「それに、ボクがサンルイスにいた頃は、レンソイスなんて誰も知らなかったな」。サンルイスから南に車で4時間、次の目的地レンソイス・マラニェンセスの大砂丘が価値ある観光資源として〃再発見〃されたのは実に90年代初頭、最近のことだ。

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バンジの荷台の客席のみなさん

「なぜだ。この町はバンデイランテ(以下バンジ、トヨタ車)ばかりじゃないか!」
 一行を乗せたバスの中では、そんな声があちこちから聞こえた。変わり映えしない砂地の上に薄い養土層しかない潅木林を延々と4時間、サンルイスから東南に260キロ、レンソイス・マラニャンセス国立公園の中にある、バレイリンニャス(Barreirinhas)という小さな町でのことだ。
 ここが砂丘観光の出発点だ。日系人もまったくいない町で、なぜかバンジだけが闊歩している。同車はブラジル・トヨタ社(58年創立)がサンベルナルド工場を設置した1962年から生産を開始し、01年までジープや小型トラックとして生産され続けた。日系農業者はもちろん、広く、長く愛された実用車だ。
 サンパウロ州では街中で見ることは少なくなったが、この町では荷台を3列の客席に改造したバンジが、数え切れないほど現役で走っている。
 さっそく現地ガイドのレオナルド・ソウダ・サントスさんに理由を聞くと、「知らないのかい? ここはブラジルで一番トヨタ車の比率が高いが町として有名なんだ」と胸を張った。
 「どうして?」と畳み掛けると、「一番丈夫だから。トヨタは壊れない。他社の車も試したけど、砂丘を走らせたらすぐに壊れる。最後に残ったのはトヨタだった」と断言する。「新車はもうないでしょ?」と聞くと、「新古車や中古車の状態がいいのを探してきて使っているんだ」。
 カローラが生産開始された98年以前をよく知るトヨタ社員が訪れたら、感激すること間違いなしの場所だ。(つづく、深沢正雪記者)