「最後に来たのは40年前。記憶もないくらい昔の話」—秦野生らは縁の深い神奈川農場に到着すると、清々しそうに周囲を見渡し、記憶の糸をたぐった。1962年に神奈川県立秦野高等職業訓練所に海外工業移住科が設置され、以来1980年まで通称「秦野生」と呼ばれる卒業生ら計300人余りがブラジルへ渡った。長年活動が途絶えていたが、1期生の佐藤晃さんらの発案により11日、同科設立50周年を記念し『50周年記念同窓会』が同農場の秦野10周年青雲記念碑前で開かれた。親族含め、35人が来場し再会を喜び合った機会に、戦後移民最後発組の生き様を聞いてみた。(児島阿佐美記者)
通常、移民史の中では1973年3月27日にサントス港に到着した「にっぽん丸」が最後の移民船であり、これ以降は省略される。例えば『移民80年史』にも、「戦後移住した日本移民の数はざっと5万3千人である。このうち95%は73年までに移住しており、74年以降の移住者は問題にならない」(361頁)とばっさりだ。
技術移民の先輩である南米産業開発青年隊がまとまった形できた最後の組は64年であり、戦後移住者最多のコチア青年でも68年1月の11人が最後だ。秦野生が始まったのはそんな62年であり、『80年史』には14行(364頁)の記述があるだけ。そこから18年間37期に渡り、工業分野で働く社会人330人が入学、半年間の移住訓練を受け卒業し、その大部分が渡伯したと言われる。いわば戦後移民の中でもまとまった集団としては最後発といえる。その大半は、日本の高度経済成長期に渡伯しており、それ以前の移住者とは一風違った特色があるようだ。
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——その日、神奈川農場は一面の緑に覆われていた。普通の農場のような中で、2つの日本語記念碑だけが独自の存在感を示していた。一つはブラジル秦野会10周年記念碑、もう一つは同移住課設立時の県知事・内山岩太郎氏の揮毫による記念碑だ。同氏は在聖総領事を務めた経験から、ポ語やブラジル事情等事前教育の必要性を痛感し、同科を設置した功労者だ。
記念同窓会の初めに、10周年時の秦野会会長・国谷清明さん(11期生、66、東京)が、豪快に「気をつけ! 礼!」と気合の入った掛け声をかけ、日伯両国、神奈川、秦野会それぞれの旗に一礼した。
秦野会は移住開始翌年の63年に親睦の場として設立され、早々に活動を開始したが、78年にはブラジル工業移住者協会の母体となって発展的に解消してしまった。以来06年に同窓会が復活するまでの約30年間、期生の枠を超えた集まりはなかった。
挨拶に立った佐藤さんは、「どうしても10周年の記念碑があるここで50周年をやりたかった。遠い所をありがとう」と参加者に感謝した。同農場を管理する神奈川文化援護協会の永田淳会長も、秦野生のブラジル社会への貢献と労苦をねぎらった。
秦野会を援助した故・平田進連邦下議や県人会の歴代会長、先没者に黙祷を捧げた後、黒岩祐治県知事や、カナダ在住の三枝与一さん(2期生)、8年弱で帰国した飯田恵一郎さん(10期生)から届いた祝辞が代読された。1期生の佐藤さんと馬鳥勲さんに先駆者として花束が贈られ、それぞれ持ち寄った食事を囲み、昔話に花を咲かせた。
今回集まったのは、不思議なことに船便で移住した20期以前の先発隊がほとんどだった。発起人の佐藤さんにその訳を聞くと、「73年、23期生以降の飛行機組は横のつながりがないし、帰国した人も多い」という。最後発である秦野生の中でも、後半の飛行機組にはさらに断絶があるようだ。「同窓会復活を機に交流が回復することを期待している」という彼の言葉には、長い空白期間ゆえの強い想いが込められている。(つづく、児島阿佐美記者)
写真=記念碑前で記念撮影