「思ったより集まってくれた。45周年より盛り上がってよかった」。記念同窓会の世話人の一人、安藤光明さん(71、秋田、3期生)はそう笑顔でうなずいた。
工業移住者の多くがそうであるように、秦野生のほとんどは単身渡伯だった。300人余りいた秦野生のうち、現在連絡が取れるのは60人。5年前の調査によれば約30人が逝去、約90人が帰国したことが分かっている。しかしまだ多くが消息不明のままだ。大半に連絡がとれないということ自体、〃飛行機世代〃を抱えた最後発移民の特徴かもしれない。
◎ ◎
司会を受け持った国谷清明さん(66、東京)は、当時生まれ故郷にあった日立で設計を担当していたが、「全国から社員が来てたから、俺もどっか行かなきゃいけないんじゃないかって思った。飛躍っていうのかな、やっぱりしたいと思うんじゃない」と移住を決めた理由を語る。
オーストラリアやカナダという選択肢も考えたが、それには苦手な英語やある程度の滞在費も必要だった。「試験もない、移住費もタダなのはブラジルだけ」だったことが決め手だった。
自動車ラジオを製作する日系「モトラジオ」やリオの「新潟ブラス」を経て、二世の通訳をつけて面接を受け「Embrael」に就職した。
しかしコーロルショックによる空前の不景気に突入した90年の末、従業員の8割近くの首が飛ばされた、国谷さんも巻き添いをくった。「とにかく、それからが大変だった。みな歯を食いしばってやってきたんだよ」と苦笑いを交えて言葉少なげに言い、それ以降の歴史を聞きたいと思った記者の前を早々に去った。
一見おっとりしている1期生の馬鳥勲さん(69、神奈川)も、「日本は将来ないと思ってきちゃいました。若い時は怖いもんないですよ」と当時の勢いを覗かせる。
渡伯したのは1962年、19歳の時だ。「共通語は英語だ」と思っていたほどブラジルに関する知識は皆無だった。横浜の日立製作所で電子計算機の金型を製作していたが、3年間変わらぬ安月給に見切りをつけた。
渡伯後はサンパウロ市ヴィラ・プルデンテ区にあったミシンの部品を製造する日系会社「Superfine」に勤めたが、「給料は安いし、もっと色々な仕事を覚えたい」と1年半で辞め、工業都市サンベルナルド・ド・カンポの非日系企業「Manjares」に移った。
秦野生にも契約期間はあったが厳しくはなく、馬鳥さんのように期間満了前に辞めて会社を移った人は多い。それも「昔は職場がたくさんあって、会社を変える度に給料が上がった」からだった。その一言は、移住当時70年代前半まで年率10%の経済成長を遂げていた〃ブラジルの奇跡〃時代の勢いを彷彿とさせるものだった。
もちろんポ語学習は避けて通れない。『工業技術移住10周年誌』には、「語学の出来ない人は小さな日系会社にいつまでも残り、給料もあまり上がりません」(19期生 沢井昭)、「日系人の会社にいたのではブラジル社会に入っていけない」(4期生 浜崎弘文)といった記述が随所に見られる。これらが秦野生の一般的意見なら、彼らの多くは「ブラジル社会に溶け込まなければ」という強いプレッシャーや覚悟のもと、日系企業をジャンプ台とみなし、高い語学意欲を継続させつつ働いたに違いない。
馬鳥さんもポ語を身に付け成功した一人だ。非日系の女性を妻にし、子供4人をもうけた。身を固めてからは同市のフォルクス・ワーゲン社に落ち着き、30年間務め上げて退職した。「ブラジルは何でも自由だし、楽しかった。後悔はしてない」。爽快な笑顔に、その言葉が似合っていた。(つづく、児島阿佐美記者)
写真=馬鳥さん(上)/国谷さん