ニッケイ新聞 2012年12月7日付け
東洋街では毎年のように老舗の日本食店、日系商店が閉店していく——。
そんな中で飯田龍也アレシャンドレさんが8年前から始めた「酒蔵」は、数少ない気を吐く存在だ。特にインターネットを駆使して宣伝し、宅配する商法は当地ではまだ多くない。
新しさに隠された商売の原点を尋ねると、実は父親の代からこの街で商売をしている〃老舗〃だったと分かった。一般的に、二世は有名大学を出て教授や医者、弁護士になるものが多い中、親の商売を続け、より繁盛させる姿も、この辺ではそれほど多くない。
「酒蔵」はもともと、父の英一さん(69、三重)が営業していた弁当屋だった。「人の口に入るものだから、人任せにしたくない」というこだわりから、今も店の奥の惣菜コーナーで保存料無添加の手作り食品を家族で販売する。
英一さんはかつて宝石店を営んでいたが、「あの系統はもう流行らん」と方向転換を決めた。そんな時、秦野工業移住生で料亭「赤坂」の元板前・大野瞭さんの勧めで1995年、サンパウロ市で初の弁当屋「大和」を譲り受けた。
保存料無添加・手作りを徹底し、「手のかかるコロッケや、よそにないものを色々作った」。すると日本人の嗜好に合った良質の商品が客の信頼と人気を呼び、「ここでしか買わない」という常連も出来た。
しかし建物の腐朽が進み、2年前に店舗を移転。「今は僕が道楽でしてるだけ。段々年もとってきたし、ドノと同じ気持ちでやれる人もおらん。いずれ息子の日本酒に切り替える」と弁当製造業から手を引く意向も見せている。
東洋街では、一世がせっかく育てた店舗を子孫が受け継がず、中国・韓国人に売られた事例が後を絶たない。どうして飯田親子の場合には日本食文化へのこだわりが受け継がれたのか——。
英一さんはけっして子に強制しない。「子は自分の何分の一しか生きてないんだから、同じように見たって駄目」という父の穏やかな視線の下、龍也さんは無言のうちの「一世並みのこだわり」を感じ取り、店を盛り立ててきたようだ。
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「酒蔵」が繁盛する様子を見て、輸入を希望する業者や日本酒店開店を目指す人も出てきたが、飯田さんは「簡単に売れるものならとっくに売れている。知識を身につけ時間をかけて、よく説明しないと売れやしない」と安易な飛びつきには釘を刺す。
ネットで注文を受けても、当地の問題は配達手段が限られる点だ。近辺の地域なら自ら配達するが、今年から遠隔地向けに郵便局のPAC、SEDEXを利用しはじめた。生酒や要冷蔵の酒を要望する客がいれば、運送会社の冷蔵トラックを利用する。唯一の不利は「相手の顔や反応が見えない」ことだが、販売区域は格段に広がった。
「日本酒の買い手が多い地域がサンパウロ市、リオが中心と思ったら大間違い」と飯田さんは指摘する。何と「他州の大金持ちが、一日本食店が買うより、たくさん買っていくこともある」とか。
それでもブラジルをはじめ外国での日本酒輸入量はまだまだ低い。一番多いのはなんといっても米国で、全世界の輸入量全てを合わせても米国の2%にも満たないという。
ネット更新から講習会、顧客対応全て一人でこなす飯田さんの一日は多忙を極める。でも、「ブラジルの日本酒文化は、まだ飛行機が離陸するどころか、滑走路を作っている段階」と現状を分析する。日本酒市場開拓の草分けの挑戦は、まだまだこれからが本番のようだ。(終り、児島阿佐美記者)
写真=飯田英一さん