ニッケイ新聞 2012年12月11日付け
オスカー・ニーマイヤーの訃報に関して、リオ連盟の百周年記念碑の設計を依頼したが上手く行かなかった件を前回書いた。すると、イタイプーダム建設の秘話連載「国家事業救った8人の侍」の中で紹介した、ベロ・オリゾンテで土木コンサルタント業を営む荒木昭次郎さん(南米産業開発青年隊)からも「僕もニーマイヤーが設計した物件、数カ所に携わりました」とのメールが入った▼イタイプーダム第2期工事の最中、1988年頃にも〃特命〃が下り、なんとサンパウロ市バラ・フンダ区のメモリアル・ダ・アメリカ・ラチーナの工事にも助っ人で加わったという。もちろんニーマイヤーの代表作の一つだ▼いわく「工事が遅れて、完成に間に合わないと言う事で、急遽当時イタイプーに居た袋崎、荒木、片岡、杉江が呼ばれて応援に行った事がありました。2カ月ほど居て軌道に乗せた経緯がありました」というから、こちらでもお助け部隊ぶりを発揮した訳だ。実に愉快な話だ▼中南米の団結を強化する動きに先鞭をつけた「ラ米議会」の本部として同メモリアルは構想され、89年3月の開場式に間に合わせるために「イタイプーのSWAT」が一肌脱いだ訳だ。日本移民とニーマイヤーを繋ぐ知られざる歴史がここにもあった▼なぜそんなに同メモリアルの工事が遅れたかといえば、普通の土木技術者には手におえない難しい設計だったからだ。荒木さんはメールをこう結ぶ。「最後に私の独り言ですが、彼の設計は縦横とも曲線が殆んどなので、コンクリートの型枠作りには手間暇が掛かり、土木屋泣かせの工事が殆んどです」。だからこそSWATの出番だ。(深)