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ブラジル文学に登場する日系人像を探る4=マリオ・デ・アンドラーデの「愛は自動詞」=端役の日系人コッペイロ=中田みちよ=第2回

ニッケイ新聞 2012年12月12日付け

 現在でも時々、年金者の乗客が多いバスなどで、イタリア系のおじさんに、同盟国として握手を求められることがあります。戦時中の三国同盟が生きているんですね(1937年日独伊三国防共協定成立)。逝った娘婿の家もイタリア系で、初対面の時に元同志だといわれて面食らったことがありますし。
 ソウザ・コスタ家にはトラが二匹います。ニホンドラはタナカというコッペイロ。もう一方は子どもたちの家庭教師をしているドイツドラです。ニホンドラとドイツドラは、些細なことで毎日のように張り合うんですが、この本が書かれたのは三国同盟以前だよねと、ひとり苦笑いしました。こうなってくると顔を出すのは個人じゃなくて、国家なんですね。
 国際結婚が破れる率が高いのは夫婦喧嘩に国家が顔を出すからだといわれます。同じ日本人同士でも出身県が顔を出すのと同じです。わが亭主は東北の人間は嫌いだといい、私も関西の人間は小ずるいとかやり返しますからね。アマゾンかラプラタの支配者になるつもりかというのは完全に揶揄。しかし、ドイツ系は後に居住地の南部地方から大統領を何人も選出していますからねえ・・・
 『…ソウザ・コスタ家の大人たちが劇場やパーテイーに出かけると、フラウレイン(ドイツドラ)は子どもたちを寝かしつけた後、部屋に入って横になる。孤独に耐えかねるように部屋から抜け出し、ホールに長く横たわって読みたくもない本を開く。冷たい床に乾いた音をかすらせながらページをめくる。・・・まわりにはだれかいる・・・高い木の梢には孤独な月が見える。と突然、森林の蔓草をわけるように暗闇から驚く二つの目と、平べったいニホンドラの顔が飛び込んできた。月光を浴びて滑らかに光っている。細心の注意をはらいながら足音も立てずに、やさしい言葉を待つように歩いている。そしてぬくもりを求めるようにとうとうそばにやってきた。フラウレインは気づかないふりで本を閉じた。
 「タナカ、仕事が大変ね」
 「いいえ、それほどでも。…いなかは、ひどかったですがね」
 「トウキョウからきたの」
 「いや・・・ちがいます」
 ぬくもりと訳しましたが、原文はcarinho。carinhoって多義語ですからね…愛撫、慈愛、かわいがる、配慮、関心、注意まであります。大体日本人にはcarinhoが不足しているので、それに適合する言葉が少ない。 一世世代というのはハグするとか、手を握るとか、腕をなでるとかの体の接触を嫌うので、子どもたちは淋しい思いをして育ちます。育児全般がこんな具合の日本なら問題もないんですが、ブラジル人は体の接触がハデハデ。わが子を毎日のように撫でたりさすったりしながら育てます。
 思春期になってブラジル人との交際が始まると、皮膚接触の免疫がない日本人の子弟は、勘違いしてすぐポーっとなってしまうんではないかと、最近考えますね。因みに我が家の孫は全員、混血ですからね。Carinhoが足りなかった家族の見本みたいなもんです。
 憎みあっている作中の二人が愛撫するはずもないし、ここではタナカは人恋しさから近づいてきたと考えるのが妥当でしょう。(つづく)