ニッケイ新聞 2013年1月1日付け
今を去る10年前の2003年7月26日、サンパウロ州議会ホールにおいて1300人の参加者のもと、戦後50周年記念式典が盛大に挙行された。
趣旨は、敗戦国の日本から数多くの移民を引き取り、温かく見守ってくれたブラジル国の政府と国民に「オブリガード(ありがとう)」を伝えるとともに、戦後移住者約5万人強(1952〜1978年までの時期)の決意を新たにするということであった。
この式典には、ブラジル側からジェラルド・アウキミンサンパウロ州知事、陸軍の将官5人、サンパウロ市長、州議会議員、市会議員など約250人、日本は4県の知事、2県の副知事、ふるさと創生交流団、一般参加など約300人をあわせて1300人が参加し、非常に盛り上がった。
このとき、アウキミン知事が「いまやサンパウロの日本料理店の数はシュラスカリアの数を超えている」とのべ、話題になった。
戦後移民と戦前移民を比べたとき、際立った相違点はコチア青年、工業技術移民、開発青年隊等に代表される単身移民の多さと、職種の多様性である。これらの青年たちが飛び込んでいったのが、イタイプー発電所とダム工事、マイクロウエーブ網の設置、エンブラエル航空の設計部門、またセラードでの挑戦と実績など枚挙に暇がない。
そして、農業分野での貢献は誰もが認めるところであり、今日、ブラジルが農業大国になった主因の一つである。
日本人移住者は、その勤勉さ、正直さ、団結力、企画力、行動力などの特性をいかんなく、この養国ブラジルで発揮した。その元気あふれた戦後移住者たちも、いまや70〜80歳代となり、終焉の時が近づいている。
この10年間、世界は激動の荒波の渦中にある。9・11のNYテロ事件、まさかと思われたリーマン・ブラザーズの破産、オバマ大統領の就任、混迷する中東情勢、アジアでは台頭する中国と日本と尖閣諸島をめぐる問題、BRICsの出現とヨーロッパの低迷など渦を巻いている。
その中でわがブラジルは、それらの影響を受けながらも、カブラルのブラジル発見以来の好機を迎えつつある。ブラジルはいくつかの問題を抱えつつも、ジェイチーニョ・ブラジレイロで何とか結果を出すと私は信じている。
2014年のワールドカップも、2016年のリオ・オリンピックも、ブラジルはごたごたとしながらも必ずやり遂げると思う。
移民105年の年月を経て、私たち日系社会も他国の移民社会とは少し違う、日系人の特性を活かしてブラジル発展に貢献する、いい味で独特の社会を形作っているのではないだろうか。
10万人とも言われる日本からのデカセギ帰国者も、色々問題を抱えながらも、2億人のブラジルという大河の中で、生活の場を求めている。
特に日本語能力に堪能な帰伯子弟は、適当な就労機会に恵まれれば、十分能力を発揮し、新たに日系社会の戦力になりうると期待しているのは、私だけではないと思う。
これらの若者にも活動の場を与え、何とかこの移住60周年記念式典を大成功させたいと念願している。
記念式典まで、残すところ6カ月余り。残された時間は少ない。この残り少ない時間の中、県連の園田昭憲会長や理事の方々、実力のある中沢宏一顧問(宮城県人会会長)、そして日系諸団体の方々の応援のもと、できるだけの式典をする決心である。
さあ、戦後移住者の方々、今一度集って「オブリガード・ブラジル」と、ブラジル国に感謝するとともに、このブラジルの大地に移住してきてよかったと、確かめ合おうではありませんか。
川合昭(77、秋田)
1961年にさんとす丸で移住。秋田県人会には創立翌年の61年から参加し、初代書記も務めた。90年に会長に就任。78年頃にはオザスコ文協の副会長も務め、62年に三重県津市との姉妹都市交流25周年を記念し、オザスコ市議16人を連れて訪日した。02年には日本移民百周年記念協会に参加し、04年に「戦後移住50周年記念式典」に携わった。