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第2の子供移民〜その夢と現実=教育矛盾の狭間で生きる=第3回=ブラジル人に距離感じる=「日本人的な方が合う」

ニッケイ新聞 2013年1月12日付け

 「純粋なブラジル人には、少し距離を感じます。もしかしたら私が『ちょっと違うな』って思ってしまっているのかも」。そう話すのは、3歳から12年間日本に滞在した平良エミコさん(20、三世)だ。
 5年生までを愛知県豊橋市の公立小学校で過ごした。「気付いたら日本語を話していたし、勉強はそこそこ出来たんですよ。九九なんか絶対ブラジルでは習わない。今でも役に立っていると思います。辛いことも勿論あったけど、日本の学校は楽しくて好きだったな」といかにも懐かしそうに振り返る。
 小学校には問題なく順応していたものの、ポ語が堪能でないことを危惧した両親の意向で、11歳からはブラジル人学校へ転校した。「家の中では日本語を交えながら話していたのだけど、ポ語の読み書きは不自由だったので。でも、日本の学校にそのまま行きたかったというのが本音でしたね」
 ブラジル人学校に入って、改めて自身のポ語力の低さに気付かされた。「自分の名前のポ語表記もわからなかったんです。小学校1年生の年下の子たちと同じ授業に出て、やっと基本的なところがわかるようになりました」
 中学課程を終え、16歳で帰伯してサントアンドレ市に移り住んだ。高卒資格を持っていなかった母とともに資格取得のため、同市内の補習校に3年半通った。
 「ブラジル人学校に5年もいたのに…、こっちの授業のポ語には少し苦労しました」と当時の苦労を語る。「日本語を話す人は全然いませんでしたし、母に手伝ってもらいながら何とか頑張りました」
 当時の交友関係を尋ねると、「社会人のような年上ばっかりだったし、若い人ともそんなに…」と表情が曇る。「やっぱり日本人的な人の方が、気が合うように思うんです」。それに続いて出てきたのが、冒頭の言葉だった。
 今でも、インターネットで日本のテレビ番組を見るのが趣味だ。『ほんまでっかTV』『しゃべくり7』など次々に挙げられる番組の名前は、日本の若者がみるそれと何も違わない。「ブラジルのバラエティなんか、何が面白いのかよくわからないです」と話し、当地の番組はほぼ見ない。
 平良さんの場合、ブラジルに来て初めて出来たという恋人も日系人だ。「日本語はあまり話せないけど、仕草がいちいち日本人っぽいんです。文化にも興味を持っていて、一緒に日本のドラマを観ています。さいきんは彼が日本のお笑いのものまねなんかをするようになって」と嬉しそうに語る。
 随所に垣間見える日本人性について尋ねると、「自分がブラジル人だってことは分かっていますが、それでも凄く〃日本人っぽく〃なってるように思うんです。食べ物や音楽、着るものも日本のものの方が良いように思えてしまう。日本に戻れるものなら戻りたいけど…」と答えた。
 その言葉からは、現実的に〃帰国〃することは難しいことを理解しているのが透けて見えた。
 デカセギ子弟の多くが小学校までを日本の公立校で過ごしている。おそらくこの段階で、無意識に日本人的な思考方法や嗜好が植え込まれるのかもしれない。
 国籍とは関係なく、幼少時に人格形成した場所が〃故郷〃になるのは、移民の鉄則ともいえる。何かの都合で住む国が変わって、子供時代に育んだ嗜好が一生のこることは、戦前からの子供移民が証明している。
 この「第2の子供移民」たちも、50年後、60年後にも日本に郷愁を感じ、テレビや映画、本を貪るように見たり読んだりするのだろうか。(12年8月21日取材、酒井大二郎記者)

写真=「いつか日系企業に入って日本に行けたら…」と話す平良さん