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ブラジル文学に登場する日系人像を探る 5—オ・アンドラーデの『基点』—伯学校の奇妙な授業風景=中田みちよ=第1回

ニッケイ新聞 2013年1月16日付け

 近代芸術週間のもうひとりの立役者がオズワルド・デ・アンドラーデ(Oswald de Andrade、1890—1954)です。早くからボヘミアン的生活を送り、1912年前後にヨーロッパへ渡りました。
 当時はフィリッポ・マリネッチの「未来派宣言」などが声高く語られていました。バッシングを覚悟でいえば、オズワルドはその当時の前衛主義にかぶれて帰ってきたといえます。
 そもそも、フランス人学生カミアをともなって帰伯したことも前衛的でした。男女関係に関して、カトリック国ブラジルは結構古かったので周囲の顰蹙を買っています。翌々年には入籍しないまま長子が誕生。
 1925年に詩集『ブラジル木』(Pau-Brasil)、28年に雑誌『食人』(Revista de Antropofagia)の発行というかたちで前衛主義の表現を始めました。
 このネーミング、なかなか意味深長でブラジルの生活に慣れた今ならよく理解できるのですが、最初は奇抜さを謳っただけだと考えていました。 ブラジルの木が染色材として乱伐されたのは唯一の特産品だったからで、人食い人種は実際ブラジルの沿岸部に生息していたんですが、彼らが人を食したのは、人を食べることによって彼らのもつ教養や知識を得たいと願ったからだといわれます。
 ヨーロッパから来るもの(輸入品)をわれわれは咀嚼して、血肉と化してそれを外に出さなければならない(輸出)。取り入れたものを血肉化して、ブラジルダーデを醸成しなければならない、と翻訳できます。
 思想としてはよくわかります。現代でもブラジルはその途上にあるわけですからね。その意味で彼は時代を先取りしていたといえます。
 ただし、『ゼロ・マークⅠ』(Marco Zero I – A Revolucao Melancolica)の発表はずっと後の1943年になってからです。マリオ・デ・アンドラーデが『愛とは自動詞』を発表したのが1927年ですから、その15年後ということになります。どうもね、オズワルドは私生活が騒乱の一言に尽きるんです。
 フランス娘カミアと同棲し一児をもうけたといいましたが、すでにヨーロッパ行きの船中で知り合ったダンサーがいて、このダンサーとよりを戻してカミアとは別居など、近代芸術週間以前から、私生活で混迷をつづけていました。
 1915〜16年にかけて後の同志となるギリエルメやマリオの知己を得ますが、18年にはマリア・ルルデスと秘密裏に結婚。極めつけは22年に五人組を結成してまたヨーロッパに行くんですが、そのメンバーだった画家のタルシーラ・ド・アマラルと同棲。タルシーラの名前は知らなくても、後方にサボテンがあり、前面の手と足が大きい幻想的な絵は見たことがあると思います。
 同じ女性としてこの前衛的な才能にはシャッポを脱ぎますね。進取の気が充満していませんか。26年になって正式結婚、ところが29年には別居。まあ、芸術家同士の結婚はうまくいかないのが常識。結婚とは自分を捨てないと成り立たない面があるものなので、自立している女にはアホらしいと思うことも多々あるわけで、この辺は共感できるのですがね。
 ただし、同年すぐさまパグと同棲。こうなってくると歯止めが利かない感じです。女をとっかえひっかえ。いいなあと羨望する人もいるかもしれませんが、ご本人は辛いんじゃないんですかね。私はプレイボーイというのは不燃焼感にさいなまされる人間だという風に定義しますから、ちょっと、気の毒だと感じるんです。
 40年にはアルゼンチンでカルロス・プレステスに会って肝胆相照らす仲となり共産党入党。パグが政治的な圧迫を受けて隠遁しているうちにピアニストとのロマンス、まもなくジュリエッタと契約結婚。財産分割制です。42年離婚、すぐさまマリア・アントニエッタ・アルケミンと結婚。このあたりからゼロ・マークが執筆され始めたと考えられます。もともと五部作を模索していたそうですが完成したのは二部までです。(つづく)