ニッケイ新聞 2013年1月31日付け
やがて機内への搭乗が始まった。すべての乗客が席に着いたが、空席が目立った。若い技術移民は飛行機に乗るのが初めてなのか、窓側の空席を見つけると離陸前に移動した。
日航機は定刻通り羽田を離陸した。上昇するジャンボ機の窓から東京の夜景が見えた。その美しさに感嘆の声が上がる。しかし、児玉にはその夜景を楽しんでいる余裕はなかった。それまで押さえていた朴美子への思いが、離陸と同時に胸を小突かれたように心の中に沸き起こって来た。
機体が上昇を続け、日本から遠ざかるにつれて朴への思いはなお一層強くなっていくような気がした。
〈これで良かった〉
児玉は自分に言い聞かせた。二、三年は日本の土を踏むことはない。時間が解決してくれる。そう思うしか術はなかった。
水平飛行に移ると、食事が運ばれてきた。児玉はほとんど食事には手を付けず、ウィスキーをあおり続けた。気圧の関係か酔うのは早かった。児玉は後部座席の空席三席を確保すると、肘掛けを後ろに倒して体を横たえた。
半年ほど前まで児玉は自宅と彼女の家を往復する日々を送っていた。
その夜は二人ともかなり酔っていた。美子の家は西武線S駅から歩いて十分もかからない閑静な住宅地にあった。手広く不動産業を営む父親が所有する家で、彼女はそこに一人で住んでいた。鈍い金属音を立てる小さな門扉を開け、二、三メートル先に玄関がある。家の中に入ると人気のないひんやりとした空気が澱んでいる。真っ直ぐに廊下が伸びていて、右手に応接間、左手にはキッチンやバス、トイレが並んでいた。美子は廊下と二階に通じる階段のライトを点けた。二階に彼女の寝室があり、美子の趣味なのか、絨毯もベッドも部屋のインテリアは黒が基調にデザインされていた。
寝室に入るとステレオのスイッチを入れ、ボリュームを下げてジャズのレコードをかけるのが、彼女の習慣だった。ステレオの横にはビニールのケースにしまわれた琴が壁に立てかけてある。正確には伽耶琴(カヤグム)だが、美子はもう何ヶ月も稽古をしていないのか埃が積もっていた。
倒れ込むようにして児玉は彼女のベッドに横になった。美子はすばやく着替えるとパジャマ姿でベッドにもぐり込んできて、いつものように俯せになって煙草を吸い始めた。児玉はパジャマのボタンを外し美子の胸をまさぐった。
「ショートホープ一本吸う時間も待てないの」
美子が煩わしそうに言った。児玉は聞こえないふりをして、美子の豊かな胸を揉んだ。美子は相変わらず煙草を吸い続けたが、児玉の手が自由に動くように体を横向きに変えた。彼女の吐く煙が、児玉の顔に直接かかる。児玉には喫煙の経験がなく煙草にむせた。
「ねえ、一度も吸ったことないの」
「ああ、ない」
「吸ってみない」
美子は煙草を児玉の口に差し込もうとした。
「やめてくれ。俺は煙草の臭いが嫌いなんだ」
アルコールを受けつける者とそうでない者がいるように、児玉は煙草だけは吸いたいとも思ったこともなかったし、吸ってみようという好奇心もおきたことがない。タバコを受けつけない体質だと自分でそう思い込んでいた。アルコールの方は日本酒でもウィスキーでもバーボンでも、分解する酵素が人より多いのかかなりの量を飲んでも、意識を失うということはなかった。
児玉は美子の胸に顔を埋めるようにして、彼女の吐く煙から逃げようとした。枕元の小さなランプに映し出される美子の肌は透き通るように白かった。
「きれいな肌だ」
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