ニッケイ新聞 2013年2月1日付け
軍国主義が高まる時世に掉さすように社会主義者として知れ渡っていた山崎の演説会には、いつも特高警察が来て見張っていた。でも道子は、そんな彼こそ社会の矛盾を解決できる政治家だと信じて結婚した。《人なみに箱根に新婚旅行に出かけたものの、その時すでに尾行つきという、変わった人生へのスタートでした》(『婦人公論』58年、96頁)。
太平洋戦争開戦で政党は解散を命ぜられ、山崎も生計を立てるための仕事を懸命に探した。夫に軍属としてボルネオに行く話が持ち上がった時、道子は強硬に反対した。《いやくしも社会主義者が、侵略戦争の片棒を担ぐような行動に出ることは許されるべきではないと私は思いました。私は彼の出発を引きとめようと努力しました》(97頁)。
しかし山崎は42年4月、反対する妻子を残して神戸埠頭から焼津漁船団に乗り込み、単身でボルネオ密航を図った。
《ある日のこと、ミリーの埠頭に一人の不思議な人物が、飄然と上陸して来た。「元労農党代議士、山崎劒二」彼は私に一礼をすると、ゆっくりとそう名乗って、参謀長にとりつぎ方を申出た。これは又正に「正体不明の怪人物現わる」とでも言うべきであろう。(中略)その服装はと見れば、よれよれの国民服風のものを着用しており、その腰には無雑作に日本刀がたばさまれていた。まるで、西南の役にでも出て来るような格好である。
しかも、彼が乗って来た船というのが、焼津践団の山口氏を中心とした鮪漁船に便乗しており、どうみても内地を秘かに脱出して、大胆にもミリー迄密航した者としか考えられない風態である》
ボルネオの元独歩三六七大隊第一中隊長の広瀬正三編『あゝボルネオ』(1971年、白鷺ボルネオ会発行)の「ボルネオ風土記 風下の国」(元三十七軍司令部付き飛行班長・山田誠治筆)には、山崎の破天荒な上陸風景がそう描写されている。労農党とは社会大衆党の前身で、戦後の社会党につながる源流だ。
ボルネオ守備隊の参謀らは《妙な奴が舞い込んできたものだ》と困惑し、《労農党と云えばアカの急先鋒と称せられ、国内の到る所にもぐり込んで、ストライキを扇動している張本人だということだ》と警戒した。しかも何度問うても「なぜやってきたのか」を決して口にせず、ただ軍政に協力したいと熱望した。
そんな山崎を意気に感じたが、参謀長は陸軍省に念のため伺いを立てた。すると《山崎劒二は、思想上極めて危険な人物につき断じて採用できず、速かに内地へ還送せられたし》と返電があった。
それを見て参謀長はカンカンに怒った。《「何を馬鹿な!! 陸軍省のチンピラ共に、何がわかるか。己むを得ん奥の手を使うか」今度は陸軍大臣宛に、親展電報となった。「前電申請の件、山崎劒二は転向者として、前警視総監よりの推薦状も所持しあり。同人の行動監視については現地軍が責任をとる。よって本件に限り当人に対する処遇は、この際、灘軍(註=ボルネオ守備軍の通称号)に一任せられたし」とまあ仲々強硬だ。それはまるで「貴様等に、現地の実情がわかるものか。いちいち余計なことを言うな」と言わんばかりのである》
山崎の無謀な行動に参謀長は特別な処遇を計らい、陸軍司政官としてケニンガウ県知事に任命した。反乱を起こしたこともある気性の激しい土地柄だったが、山崎は大胆不敵にも警備兵を連れず、通訳とたった二人で現地入りして待ち構えた地元民を驚かせ、心を開かせた。(つづく、深沢正雪記者)