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《戦後移民60周年》=聖南開拓に殉じた元代議士 山崎釼二=『南十字星は偽らず』後日談=第3回=真面目さ故に二人妻事件=正妻との選挙戦に惨敗

ニッケイ新聞 2013年2月2日付け

 元飛行班長は《この広大無辺なジャングルに蟠踞する最も剽悍なムルット族、イバン族、ドスン族等の群落をしっかりとその手中に収めて、物情騒然たる周囲の情勢下にもかかわらず、終戦の最後の日まで、吾が意の如く原住民を統率するという、離れ業を立派にやってのけたのである、おそらく北ボルネオ軍政史上最も魅惑的な威力を発揮したのは、実は彼山崎県知事であったかもしれない》と『あゝボルネオ』に記した。
 参謀長の期待に応え、名知事として現地で親しまれ、自ら現場監督となって密林を伐採し、今に残る飛行場兼用の約20キロの幹線道路「ヤマザキロード」を作った。アインの献身なくして、その評価はありえなかっただろう。
 同書には山崎が密航した理由の謎解きもあった。
 《軍は、山崎氏につき実情を具して、陸軍省に申請した結果、晴れて司政官四等に叙するとの朗報に接した。その彼が参謀長の前で、涙を流して喜んだ事もあったという。私はこれを聞いた時、彼の転向は本物であったのではないかと、そう思ったのである。その時の彼の言葉は、真実に溢れていたようだ。「私もお蔭で、陽の目を見ることが出来て漸く親不幸のつぐないをしました。故郷の父は、私の為に村八分となってやむなく御殿場にちっ居をしていましたが、今回の採用により晴れてその父に喜びを報告できます」彼はその時はじめて、内地を脱出して、ボルネオまで密航した当時の真相を参謀長の前に語ったそうである》
 自らの思想ゆえに親が村八分にされたとの経験が、特高警察も手を焼いた左翼活動家を転向させたのか。この揺れは、山崎の人生の様々な局面で顔をのぞかせる。
 ボルネオ島は長年英領だったが、その時代から東山農事株式会社(本社=東京)が投資してゴム園の経営などをしていた。その現地人社員には妹の阿燕がいた。彼女はインドネシア人と中国人の混血で英語と中国語が堪能だったため、山崎は43年6月から家政婦として雇い、すぐに秘書、現地妻として関係を深めていった。当時の山崎は働き盛りの40歳、アインは18歳になったばかり。翌44年6月には長男興南、終戦直後には次男栄楠も生まれた。
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 46年4月の帰国に際し、山崎も他の軍人同様に、最初はアインを現地に置いていくつもりだった。『南十字星は偽らず』(52、山崎阿燕著、北辰社)によれば、山崎はアインから連れて行ってくれと必死に頼まれた。残されたら「港の女」(売春婦)として生きて行くしかない、私と子供たちは一生「日本人は悪魔だ」と山崎を恨み続けるでしょうと迫った。責任を感じた山崎はアインらを連れ帰ったため、二人妻事件として大騒ぎになった。
 『曠野の星』(51号、以下『曠野』)によれば、「日本の各紙の論調は、山崎が現地妻を捨てて帰らなかった男の責任と苦悩に対して同情的であったが、日本の婦人達からは冷眼視された」(56頁)とある。
 しかも山崎らが帰国したのは、女性が初めて投票と立候補を許された最初の総選挙(46年)の一週間前 奇しくも、山崎が不在だったことから社会党から要請されて正妻の道子が初立候補した時だった。
 道子は県1位で当選を決め、翌年の戦後二度目の衆院選時は、なんと夫婦が同じ選挙区(静岡二区)で争い、道子は当選し山崎は落選、立場は完全に逆転した。
 その後、道子は衆議2期、参議4期を務め、社会保障や売春防止法制定などで活躍するなど女性大物政治家への道を歩んで行く。この時期が夫婦にとっても、政治家としても決定的な分かれ道だった。(つづく、深沢正雪記者)

写真=ボルネオの元独歩三六七大隊第一中隊長・広瀬正三が編纂した『あゝボルネオ』