ニッケイ新聞 2013年2月5日付け
『南十字星』の序に尾崎士郎は、《終戦直後の混乱の中へ、恥を忍んで阿燕女史とともに二人の子供をつれて帰ってきた彼に故郷の風はつめたく、一時は周囲から指弾の的となって、飢餓をしのぐことさへ容易ではないやうな生活を辛うじて支へてゐる彼に再起の望みはもはや完全に失われやうとしてゐた》と当時の状況を説明している。
そんな中、さらに度重なる不幸が襲った。《暗澹たる前途に光明の翳さへもなく陰惨な生活の中で唯一の慰めであつた二人の子供のうち、次男の栄楠が、二十二年の秋、顔面大火傷をした上にコンクリートの床の上に逆さに落ち、半身不随になっただけではなく、日本脳炎にかかって生命も覚束ないという矢先へ、こんどは残る一人の長男、興南が五つの春に沼津港の岸壁から海中にすべり落ちて、あつという間もなく一瞬にして溺死してしまった》
そんな中、釼二は1949年の静岡県沼津市長選挙に革新派から出馬して自由民主党候補に競り負けた。51年4月に沼津市議には返り咲いたが、52年10月の衆議院選挙でも落選した。
市長選のあと、道子は信頼できる人に頼んで「やり直し」を提案している。それに対し、釼二は「私は自らが誤った道を歩いたのだから、その結果が失敗であっても、責任をとっていきたいと思う。何卒このままにしておいて貰いたいと美智子に伝えてくれ」と言い、涙を流した(岩田さやか、『静岡県近代史研究会会報』98年6月10日付け237号)。
道子の方から離婚を決意し、50年に成立した。女性の人権を擁護する立場としては「二人妻」を容認できず、離婚せざるをえなかったが本心では彼を嫌っていなかった。
その間、釼二は51年に『南十字星は偽らず』の原稿約300枚を、日本語の読み書きができないアインから聞き書きしたという形で執筆した。いくら選挙演説をしたところで〃二人妻〃の汚名は晴れない、読みやすい小説の形で事情を説明すれば、自分の立場がわかってもらえるはずと釼二は考えたのだろう。
その本には南洋の多人種で混血が進んだ特殊状況、妾を持つ習慣が描かれ、アインから連れ帰って欲しいと懇願される場面が最後の山場であり、読めば「連れ帰っても仕方ない」と思わざるを得ないような物語だ。
出だしこそ軍政寄りの記述だが、終戦が近づくにつれ現地人の視点から見た日本軍批判の舌鋒が鋭くなり、社会主義者の面目躍如ともいえる記述が光る。『あゝボルネオ』には《彼の転向は本物であった》と書かれたが、真情はこちらの方だったのかもしれない。
釼二は友人で、『人生劇場』などで有名な小説家・尾崎士郎にこの原稿を持ち込み、文藝春秋の編集長に推挙してもらった。多忙な尾崎は原稿を渡されたが数カ月は机の辺りに置いたままになっていた。《最初の幾部分だけ》と手にとったら、《途中でやめることが出来なくなり、とうとう夜の十一時頃から、自分の仕事を放擲したまま最後まで読み終わって、やつと時計を見ると四時になつてゐた。かういう経験は近頃の私にはまつたく稀有の出来事である》と尾崎に書かしめた渾身の作だった。
この原稿の短縮版が文藝春秋で紹介され、52年3月には単行本として出され話題を呼んだ。
53年9月にはこれを原作に同名映画(新東宝)まで制作され、高峰三枝子がアイン役を演じて話題を呼んだ。ところが不思議なことに、この映画の後、釼二は選挙に出ていない。(つづく、深沢正雪記者)