ニッケイ新聞 2013年2月6日
児玉もブラジル人の賑やかさに閉口した。しかし、二人ともホテルで十分に睡眠を取ったせいか、それほど気にはならなかった。ブラジル人の席は、どこの席もよく食べ、よく飲んで、話し、笑い声が響き渡っていた。児玉も小宮も、楽しそうにしているブラジル人の輪の中に加わりたい衝動にかられた。
そんな二人に気づいたのか、ブラジル人の男性が話しかけてきた。
「ア・オンジ・ヴァイ・ヴォッセ?(どこに行くんだい)」
「パラ・サンパウロ」
答えたのは小宮だった。
「ヴォッセ・インテンジ・ポルトゲース?(ポルトガル語を話せるのか)」
「ウン・ポッキーニョ(少しだけさ)」
「ヴォッセ・エ・ツーリスタ?(旅行者か)」
「ノン、ソウ・イミグランテ・ジャポネース(いや、日本人移民さ)」
「イミグランテ!」
男は大袈裟に驚いて見せた。
「ヴォッセ・ゴスタ・ド・ブラジル?(ブラジルが好きか)」
「クラーロ(もちろん)」
ブラジル人は「ちょっと待ってろ」と小宮に言い残して、自分の仲間のところに戻っていった。男は大袈裟なジェスチャーを交えながら、日本からブラジルに移住する小宮のことを報告しているようだった。
児玉は小宮の語学力に呆気にとられていた。児玉はまったくポルトガル語を話せない。会話の本さえ一度も開いたことがなかった。サンパウロで生活している間に、自然に話せるようになるとたかをくくっていた。新聞社も邦字紙であり、日本語の記事を書くだけだ。語学力が必要だと思ってもいなかった。しかし、ブラジル人と楽しそうに話す小宮に、自分だけが置いてきぼりにされたような不安を感じた。
「すごいね。あんなに上手に話すなんて」
「でも今が初めてなんです。ブラジル人と会話をするのは」
「なおさらすごいじゃないか」
「自信が湧いてきました」
小宮は嬉しそうに笑った。小宮はほとんど独学でポルトガル語をマスターしたという。
「私はまだ何も勉強していない。ブラジルに行ってから勉強すればいいと思っていたんだ。すべてはサンパウロに着いてからだ」
「そうですよ。すべてがサンパウロから始まるんです」小宮が興奮ぎみに言った。
「児玉さん、ロナルド・ビッグズのこと知っていますか」
「あの有名なイギリスの列車強盗のことかい」
「さすがジャーナリストですね。よくご存じだ」
「ロナルド・ビッグズがどうかしたんですか」
「僕はロナルド・ビッグズにブラジルの良さが象徴されていると思っているんです」
「どういう意味で……」
「彼は列車強盗で大金を強奪しましたが、人を殺していない。ヨーロッパ中を逃げ回り、オーストラリアまで逃亡し、整形手術も行った。イギリス警察の追跡は執拗で、その追及をかわすためにブラジルに逃げ込んだんです」
「でもイギリス警察はブラジルに潜んでいるロナルド・ビッグズを見つけだし、引き渡すよう要求したはずだが」
「そのとおりです。しかし、その後の対応がいかにもブラジル人らしいんです」
イギリス政府の国際的な圧力に、ブラジル政府も犯人引き渡しを約束し、国外追放の決定を下さざるを得なかった。ただ国外追放は一年以内にという条件が付いていた。
「この一年というのが曲者だったんです」
「ほっー」
児玉は小宮の熱い口調にいつの間にか引き込まれていた。
「彼には当時、愛人がいて、その愛人との間に子供をもうけたんです。そうしたら、ブラジル政府はいったい何をしたと思いますか」
著者への意見、感想はこちら(takamada@mbd.nifty.com)まで。