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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第15回

ニッケイ新聞 2013年2月16日

 二世がポルトガル語でブラジル人に児玉の言ったことを通訳してくれた。事情がわかると、彼らは値段を紙に書いたり、ゆっくりと発音してくれた。児玉も最初は挨拶ぐらいだったものが、数ヶ月もすると簡単な会話くらいなら通じるようになってきた。
「ブラジルは気に入ったか」
「ああ、好きになった」
「それはよかった」
「ところでジャポネース(日本人)、おまえはどこに住んでいるんだ」
「この近くの高層アパート」
「そのアパートっていうのはトレメ・トレメのことか」
「トレメ・トレメ……?」
「トレメ・トレメっていうのは、市場の目の前のアパートのことだ」
「そう、目の前のアパート」
「住み心地はどうだ」
「快適だ」
 こう答えたとき、市場の果物売り場のブラジル人が大声をあげて笑い出した。隣の野菜売り場の男も話しを聞いて吹き出した。児玉には彼らが何故笑っているのかしばらくわからなかった。その理由がわかったのは、アパートが何故トレメ・トレメと呼ばれているのかを知った時だった。
 「TREMER」は「振動する。揺れ動く。身震いする」という意味で、トレメ・トレメは「がたがた震える」ということから俗語では「陽炎」という意味がある。
 原稿が遅れ、帰宅が深夜になることも珍しくはなかった。タクシー運転手に住所を伝えるよりもトレメ・トレメと言ったほうがわかりやすかった。それほどサンパウロでは有名な建物だった。このアパートでの生活に慣れると、児玉はあることに気がついた。夜の八時、九時頃になると、派手な化粧をした女性が市内の繁華街へとタクシーで出かけて行った。
 彼女たちはボアッチ(キャバレー)で働く女性で、男性客の相手をしてなにがしの金を得ていた。客が取れなかった女性は午前三時くらいになってトレメ・トレメに戻ってきた。
 いつの頃からか、この建物はそうした女性が多く住むアパートとして知られるようになっていた。遠くはアマゾンから、あるいは南の穀倉地帯であるパラナ州から果物、野菜、大豆、米、麦などが大型とラックによって運ばれて来た。運転手は二、三人で交替しながら運転してサンパウロにやってくる。
 運転手たちは荷物を下ろすと、旅の疲れを取るために近くのレストランで食事をし、ピンガという砂糖黍から作る強い酒をあおる。彼らの相手をする女性もどこからともなく現われる。彼女たちの目当ては運転手の懐に収められている荷物の輸送費だ。運転手も気に入った女性がいると、彼女たちが住むトレメ・トレメに直行した。
 運転手の相手をする女性が一斉に腰を振るために、二十七階建ての高層アパートが陽炎のように震える、というのがトレメ・トレメの由来だ。児玉がここに住むようになった頃には、セアザにトラックが集中し、彼女たちは市内のボアッチに稼ぎの場を移すようになっていた。
 アパートの一階には日系人が経営する二十四時間営業のバール(コーヒーショップ)があり、児玉はそこで朝食や夕食を取っていた。隣り合わせになり彼女たちと次第に言葉を交わすようになった。
 ブラジルは人種の坩堝といわれる。肌の色も白、黒、黄色はもとよりそれぞれの混血や茶褐色の肌と実に様々だった。小宮が機内で説明してくれたようにブラジルではモレーナが美人の肌の色とされている。何代にも渡ってすべての人種が混血したことによって生み出されたミルクコーヒーのような肌の色で、その色も黒人に近い褐色から、白人に近いものまであった。


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